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第74話 哀哭(4)

 自分自身があの夢に、囚われているせいだ。記憶を奥深くに押し込んでも、夢を見ることでそれを忘れるなと、自分に言い続けてきた。  大切な人の人生を狂わせながらも、安穏と暮らしている自分が許せなかったのだ。  だからと言って、命を絶つ勇気など持ち合わせていない。ただただ苦しむことが、過去への贖罪なのかもしれない。 「またピアニストだなんてなんの因果だろう」 「宏武の心には誰がいるの? その人を、愛してるの?」 「違う。これはそんな感情じゃない」  あの人のことは忘れられないけれど、そこにある感情はもう愛おしさではない。いま愛おしいと感じるのは、リュウだけだ。  それでもあの人の存在は、彼よりも深く、心に根を張っている。浸食するかのような闇が心を覆い尽くして、自分を捕らえて放さない。  どうしたらこの呪縛から、逃れることができるのか。  リュウのことを好きになればなるほど、影は大きくなっていく。誰かを愛することを、心に広がる闇が許そうとしない。  あの人以上の存在を、心にとどめることを許してはくれないのだ。 「リュウが好きだ。でもまだ飛び立つことができるあんたを、あの人のように不幸にしてしまいそうで、怖い」 「宏武、違う。その人と俺は違う」  頭ではちゃんとわかっている。けれどまったく違うのに、いまはそれが重なって見えてしまう。  自分は疫病神だ、心がそう叫んでいる。  輝かしいほど大きく羽ばたいていた、あの人の人生――それを壊してしまったように、自分はリュウまで不幸にしてしまう。  リュウが不幸になるのは見たくない。  想像しただけで胸が苦しくなって、涙が込み上がってくる。瞬きをしたらしずくがこめかみを滑り落ちていった。 「好きでいるのが怖い。大きな影に覆い尽くされてしまいそうで、好きになるほど苦しくて辛い」  あの人の影は、自分の心の影。過去の自分に根付いてしまった、心の闇から生まれたもの。  誰かを愛してはいけないと、戒めているのも自分自身だ。  誰と付き合っても、長く続かなかった理由はきっと、心に溜まった闇が幸せになることを拒んだからだろう。  自分にその資格がないのだと、相手に背を向けたのだ。  愛しいと思うのにリュウに向き合えない、それは自分の中の後悔が拭い去れていないからだ。  それは墨を落としたように、深く染みついて簡単には消えない。

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