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第686話 夏日 28-3
「え? 嘘、そんなに前?」
よほど驚いたのだろう。月島はもたれていたシートから身体を起こし、俺を振り返った。振り返った視線を見つめ返すと、月島は大きく息を吐いて再び身体をシートに埋める。そして頭を整理しているのか、指先で眉間を揉むようにして小さく唸った。
「もしかして君、色んなとこに絡んでる? 佐樹ちゃん奥さん亡くなってから数日、様子がおかしかったんだけど。ふっとある日突然、少し落ち着いてさ。ああ、そういえばあの雪の晩のあとも、風邪引いて寝込んで入院して、それからまた少し変わったんだよ。事故のあとずっと俯きがちだったのに、前を向くようになったんだ。でもそれが君のおかげだったとして、なんで俺そんなに嫌われるかな?」
わけがわからないといったようにため息をついた月島は、また煙草を咥え紫煙を吐き出す。しかし俺が月島のことを快く思っていなかった理由など、わからなくて当然のことだ。それは俺だけが知っていることで、佐樹さんも知らないことだからわかりようもない。
「事故の数日後、偶然に佐樹さんと再会した。これを逃したらもう会えないかもしれないと思って、その日に勢いで告白して……でも佐樹さんは気持ちがかなり不安定な時だったから、一緒にいたいと言ってくれたけど、その返事は保留にした。もしまた会えたらその時にって約束して、マンションの前で別れた」
小雨が降る中、佐樹さんの手を握ってその手を離すのが惜しいと思うほどに、その時から好きでたまらなかった。それはなぜと問われてもいまだに答えは見つからないが、一目惚れというやつなのだろう。
マンションにたどり着き、想う心に反して自分から離した手に、胸がひどく痛んだのをいまでも覚えている。そして彼が不安がらぬように笑みを浮かべて「じゃあ、また」と手を振った。マンションの中へ入り姿が見えなくなるまで見送って、ほのかに残る手のぬくもりを俺はきつく握り締めた。
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