702 / 1096

第702話 夏日 32-2

「佐樹さん、愛してる」  「うん、僕も藤堂が好きだよ」  優しい声、言葉、それが幸せでたまらないのに、胸が痛くてたまらない。軋む胸の痛みが作り出す不安は広がり、傷ついた心の隙間に黒く淀んだものをこびりつけてしまいそうな気になる。縋り付くように華奢な身体をかき抱いたら、優しい両手が俺の頬を包む。そして浮かんでもいない涙を拭うように、佐樹さんの指先は何度も何度も俺の目尻を優しくなぞった。  そのぬくもりが温かくて、ただただ俺はきつく目の前の身体を抱きしめていた。見えない不安に捕らわれてしまわないように、ぬくもりだけを胸に留め置こうと、ゆっくりと俺は目を閉じた。そんなまぶたにそっと触れる唇は胸の痛みを吸い取ってくれるようだった。 「藤堂、電車」 「うん、わかってる。ごめん佐樹さん」  しばらく目を閉じたまま佐樹さんを抱きしめていると、腕の中で小さく彼が身じろいだ。もう時間はないのだとわかっている。それにこれ以上ここにいて、彼になにかあっては困る。切ってしまった電話は鳴り響くことはないけれど、もしも彼にまで手が及んでしまったらと思えば、立ち向かわなければとも思う。 「鍵、もらったから、俺がちゃんと戸締まりして帰る。佐樹さんはこのまま寝ていいよ」 「気をつけて、帰れよ。もう夜遅いし」 「大丈夫、ここも家も駅から近いから」  ほんのわずか離した身体を再び強く抱きしめて、目の前の髪に口づけを落とすと、ようやく意を決したように俺は立ち上がった。心配げな視線に見上げられ、苦笑いを返してしまったが、もう時間がない。かなり余裕を持って佐樹さんを起こしたというのに、時間は進み、最終電車の時間が近づいていた。ここが駅まで五分とは言え、悠長にしていると乗り遅れてしまうだろう。 「じゃあ、また来週」 「ああ、また来週」  そうだ、また何日か我慢をすれば佐樹さんには会える。そう思って笑みを浮かべると、俺は彼の家を足早に後にした。

ともだちにシェアしよう!