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第704話 夏日 32-4
「俺だって暇じゃないっ。それに川端の養子にはならないって何回言わせるつもりだよ」
シャツを掴む手を振りほどくように腕を振り上げれば、表情も顔色も変えぬままこちらを見ていた視線が微かに揺らぐ。けれどそれは一瞬で、再びこちらを見る目は冷えきった水面、いや沼のようだと思った。夏になり、日に日に表情が乏しくなっていくのは目に見て気づいていたけれど、久しぶりに顔を合わせてそれがますますひどくなっているのがひと目でわかった。
夏は俺にとってもこの女にとっても鬼門だ。
「いい加減もう諦めろよ。俺がここからいなくなったとしても、現実は変わらない。何年経ったと思ってるんだ、もう遅い。遅過ぎるだろ」
「来週は」
「……っ、来週は弥彦やあずみたちとキャンプに行くって言っておいただろ。それにもうほかに休みなんかないし、川端に割く時間はない」
普段の威圧的で高慢な雰囲気にも嫌な気分を覚えるが、いまのなにを考えているのかわからない虚ろさも不気味で仕方ない。しかしどちらにしてもなにをするかわからない状況は変わらない。
再び伸ばされた腕を避けて急いで階段を駆け上がると、背後からヒステリー気味な声で呼びかけられるが、その声を振り切るように部屋の扉を開けてその中に飛び込んだ。後ろ手に扉を閉めてため息を吐き出せば、身体中の空気がすべて吐き出されるような錯覚に陥る。力が抜けてしゃがみ込んだ俺は、膝に額をこすりつけて肩を落とした。
「佐樹さん」
重苦しい現実に自然と愛しい名前が口からこぼれ出る。少し前まで抱きしめていたその人を思い起こしながら目を閉じれば、ふいに名前を呼ばれた気がした。焦がれ過ぎて幻聴まで聴こえてきたかと苦笑いを浮かべてしまったが、それでも声は耳元で優しく俺の名前を紡ぐ。そしてその声に誘われるままに掴んだ携帯電話。
鳴らないはずの携帯電話が鳴っているような、呼んでいるような錯覚。
「あ……」
開いた携帯電話を見つめたまま、時が止まったような気がした。見慣れた番号に胸を高鳴らせ、そっと携帯電話を耳元に寄せれば、優しい声が耳元に届いた。自分を呼んでくれる、たったそれだけなのに心が一瞬で救われる気がする。いまこの瞬間に届いた想いがなによりも嬉しいと思った。
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