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第989話 別離 23-4

「荻野様ですね。はい、お待ちになっておりますよ。こちらへどうぞ」  僕の上擦った声を笑うこともせず、彼女は僕を店の奥へと案内してくれる。店はカウンターのあった場所だけでなく、奥のほうにも続いていた。靴を脱いで細長い廊下を抜けていく。カウンターがあった場所の明るさとは違い、こちらは照明を落としたほのかな明るさだ。  廊下の両脇にある客間は座敷になっているようで、ほどよく距離が置かれすべて個室になっているようだ。人の声は聞き耳を立てないと聞こえないくらいで、賑やかな居酒屋くらいしか行ったことがない僕には敷居の高い場所だなと思った。  楓の間と書かれた部屋の前に来ると、上着と荷物を預かると言われ、僕はあたふたしながらコートと鞄を手渡した。女将は後ろに控えていた萌葱色の着物を着た女性に僕の手荷物を引き渡すと、ふすまの前に正座をして中へと声をかける。 「荻野様、お連れ様がお見えになりました」 「どうぞ通してください」  中から低音のよく通る優しげな声が聞こえた。その声に女将は僕に向かい頭を下げ、両手をふすまにかけゆっくりとそれを引いた。  息を飲んだ僕の前に現れたのは、写真で見るよりも落ち着いた雰囲気を醸し出している青年。ブラウンのスーツにグレーのシャツ、ダークグリーンのネクタイと、装いもなんだかおしゃれだ。着る人が違えばキザに見えそうだが、それは後ろに撫でつけた赤茶色い髪と相まって彼によく似合っていた。  入り口で固まっている僕に向けられる笑顔は穏やかなもので、彼は綺麗な茶色い瞳を細めていた。 「どうぞ入ってください」 「失礼します」  大げさに頭を下げた僕に微かに笑う声が聞こえる。頬が熱くなるのに気がついたが、それでもなんとか彼の向かい側に腰を下ろした。すると部屋のふすまも静かに閉められ、二人きりの空間に変わる。平静を装うために僕は小さく深呼吸をして前を見据えた。

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