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第72話
*
「痛っ……」
包丁で切れた指をボーッと眺める。血がタラっと浮き出ているけど、こんな浅い傷なんかより胸の方がずっと痛い。痛くて苦しくて、今にも罪悪感に押しつぶされそうだ。
(俺のせいで……)
俺のせいで先生は希さんと別れた。先生と笑いあって食卓を囲むのは本当は希さんで、俺がいなければ今ごろ先生はもっと幸せだった。
俺はいわば、邪魔な存在だったのだ。
もちろん先生はそんなこと考えてないと思う。先生はそんなことを思う人じゃない。だけど……だからこそ、俺から身を引かなきゃ。先生は優しいから、俺が引かないと、このままズルズルとこの関係は続いてしまうだろう。
(出て行く支度……しなくちゃ……)
先生が帰ってくるまでの約一時間、出来ることは全部したい。
夕食の準備、掃除。洗濯は流石に乾かないけど干すだけはした。荷物をボストンバックに詰め、それが終わったころに、ドアがガチャっと開いた。
「ただいま、心」
「先生……おかえりなさい」
俺の言葉に、先生はふわりと微笑んでくれる。
そんな、いつも見せてくれる柔らかい笑顔が好き。
俺のことを見つめる優しい眼差しが好き。
名前を呼んでくれる穏やかな声が好き。
──先生の全てが、大好き。
ギュウッと苦しい胸を押さえて、俺も先生に笑い返す。
先生のおかげで笑えるようになった。幸せってどんなものなのか、知ることが出来た。誰かのおかげで毎日がこんなに楽しくなるんだってことも、知ることが出来た。
だから、もう大丈夫。
「先生、お世話になりました」
深々と頭を下げる。頭を上げると、先生は面を食らったような顔をしていた。
それはそうだ。あまりにも突然過ぎるって自覚はある。でも、後回しにすればするほど、離れがたくなるって分かってるから。
(ごめんなさい)
これから俺は、この世で一番嘘を言いたくない人に嘘をついて、俺のことを大切だって言ってくれた人を裏切る。
「お父さんから連絡来たんです」
「え……」
「家に帰るから、また一緒に暮らそうって。先生のおかげです」
(泣くな。泣いちゃ駄目だ)
声が震えそうになるのを必死で堪えて、先生から貰った大切な鍵を差し出す。俺にはもう必要ないものだから。
「ありがとうございました、高谷先生」
幸せになってください。そう言いたかったのに、俺の声はその言葉を紡ぐことはなかった。
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