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第185話 高谷広side
階段を登って部屋に戻ろうとすると、ペタペタと心が駆けて来た。もしやと思って足元を見れば、案の定靴を履いていない素足。パジャマのボタンはかけ間違えていて、肩にはバスタオルがかけっぱなしで、濡れた髪は雫を落とし続けていた。
「せんせ……戸塚君は?」
慌てて駆け寄って、不安そうな顔を落ち着かせるように撫でる。いつも俺より高い体温が、やっぱり今日は冷たかった。
「今帰ったよ。家ついたら、心に連絡してくれるって」
俺はそう言いながら、周りに人もいないことを確認し、心を抱き上げた。
「……そう、ですか」
「ん。中入って、足洗おっか」
「ふぇ……?あ……俺……」
「ごめんな。部屋にいなくてビックリさせちゃったよな……怪我はしてない?」
「……は、い」
「良かった」
抱いたまま再び風呂場に連れて行く。浴槽の縁に座らせて、自分の腕と、心のパジャマの裾をまくり、適温のシャワーで汚れを落とす。その際に、親指と人差し指の間の擦り傷が目に入る。
「昨日の傷……痛くないの?」
「……はい。全然」
(本当かな……)
確かに大した痛みではないだろうけど、昨日の今日だし少しくらいしみると思われる。多分、何も『感じない』のだろう。心が痛すぎて、身体的な痛みを感じていない。
「心、何があったか話してくれる?」
見上げると、心はフルフルと首を振った。言いたくないという思いが、目の色からありありと読み取れる。これは多分、俺の立場を思ってのことだろう。生徒に平等に接さなければならない、教師としての立場。
戸塚君からだいたいは聞いたから、わざわざ心から聞く必要はないかもしれない。だけど、そうしたらこの子は、また一人で抱えて悩んで、苦しくなって、前のように諦めてしまうのではないだろうか。
(それは駄目だ……せっかくここまで笑えるようになったのに……)
俺はシャワーを止めて、心の手を握った。両手でしっかりと包み、覇気のない瞳を見つめる。繋がった手から、元気が流れていけばいいのに、なんて思いながら。
「心、俺は確かに皆の担任だけど、その前に心の恋人だよ」
「……でも」
「他を蔑ろにする気はないけど、心のことが何よりも一番大事」
「……っ」
「だから、辛かったら泣いて良いし、たくさん甘えて良い。俺には我慢しないで」
心の瞳は不安で揺れていて。俺の手にすがるように、ズルズルと床に崩れ落ちた心は、ポロポロと涙を零し始めた。堰を切ったように溢れ出る雫が、床に溜まった水と混ざり合う。
「……うっ、ぅ……うぅっ、俺、おれっ」
「……うん」
「おれっ……やまだ、くん、に、ひどいこと、したっ……めいわくっ、かけちゃった……」
「……ん」
「おれがっ……うっ、ひっくっ……おれがっ、わるいのにっ……とつかくんっ、おこってっ……うっ、けがっ、しちゃった……っ」
ギュウッとしがみついてくる心を、強く抱きしめる。
「大丈夫。誰も心が悪いなんて思ってないよ」
「ぅうっ……う、ひっく……うぁっ」
「いっぱい泣きな。ずっと一緒にいるから」
「うっ、せん、せっ……ううぁ……ああ、うああっ」
この年頃の子の、友だち付き合いは非常に難しい。しかも、心は今まで友だちがいなかったのだから、なおさら大変だろう。けれど、これは心の将来のために必要だとも思うから。
(頑張れ、心……)
俺に出来ることはなんだってするから。だから、これを乗り越えて、また笑って欲しい。あの眩い笑顔を、また咲かせて欲しい。
……しかし、そんな願いは虚しく、夏休みが終わっても心と山田の関係は元に戻らなかった。
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