227 / 242
1
***
朝起きたら、お母さんがいなかった。
毎朝不機嫌そうに朝食の支度をしていたお母さんの代わりに、普段なら一番遅くまで寝ているはずのお父さんが、ダイニングテーブルの前で立ち尽くしていた。
いつも俺のことをおんぶしてくれる大きな背中は、その時だけはなぜか小さく見えて、そして酷く悲しそうだった。
床に落ちている緑の紙が何を意味するのか、その時の俺はよく分かっていなかったけれど、お父さんにとって悲しい出来事が起こったんだってことは、子ども心に分かっていた。
次第に俺は、お母さんは二度と帰って来ないんだと悟った。それはもちろん悲しかったし、まぶたが腫れるくらいたくさん泣いた日もあった。
たとえ、叱られて怒鳴られてばかりでも。たまに叩かれることがあったとしても。それでも、優しい一面がないわけではなかったし、なにより、俺にとっては唯一の母親だったから。
けれど、徐々にエスカレートしてた行為に怯えて、その恐怖から解放されたことに安堵したことも事実で。俺は最低なことに、心の何処かで、これからのお父さんとの二人暮らしを楽しみにしていた。
お母さんがいないぶん、お父さんと過ごす時間が増えて、お話する時間も増えた。算数のテストで百点を取ったとか、五十メートル走で一番だったとか。そんな子どもっぽい自慢をするたびに、お父さんは「すごいな」「偉いな」って褒めてくれて。俺は嬉しくて、もっと褒めて欲しくて、頭を撫でて笑って欲しくて、いろんなことを頑張った。
お父さんが作ってくれたご飯は、ちょっぴり不格好だったけれど、とっても美味しかった。お父さんと手を繋いでお買い物に行くのは、とっても楽しかった。お父さんとお風呂に入るのも、一緒に寝るのも、全部ぜんぶ。
お父さんと一緒にすること全部が、すごくすごく楽しかったんだ。
けれど、そんな夢みたいな時間は長くは続かなかった。俺がお母さんと同じ顔で笑えば笑うほど、お父さんから笑顔が消えていき、徐々に俺のことを避けるようになった。お仕事から帰宅する時間は遅くなり、顔を合わせる機会も交わす言葉の数も減っていった。
そして、いつしか存在さえ認識されなくなって、お父さんは家に帰ってこなくなった。
悲しかった。寂しかった。
でも、それ以上に、バチが当たったんだと思った。
『あんたのせいで』
それがお母さんの口癖だった。
俺のせい。俺が悪い。お母さんの言う通り、全部全部俺が悪いのに。それなのに。
お母さんがいなくなって、少しだけ『良かった』なんて、自分勝手で最低最悪なことを思ったから。
だから、きっと俺は、『いらない子』になってしまったんだ。
ともだちにシェアしよう!