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***  「じゃあ、先に行くな。また学校で」  「はい。いってらっしゃいです」  「ん。行ってきます」  ちゅっとおでこにキスをされ、スーツに身を包んだ先生が外に出て行く。それを見送って鍵を閉めた俺は、わずかに柔らかい感触が残っているおでこに手を当てた。  「はぁ……」  いつも通りの幸せな朝……のはずなのに、俺は思わず小さく息を吐いてしまう。  (今日も帰り遅いって言ってたな……)  新年度になってから数週間。俺と先生は、なかなか落ち着いた時間を過ごせないでいた。  その原因は、先生のお仕事が去年以上に忙しくなったことにある。  今年度から受験生である三年生の授業も受け持つようになった先生は、あの優しい人柄と化学教師としての実力で、瞬く間に三年生からも厚い信頼と人気を得た。そして、ここ数日前から朝早くに学校へ行き、先輩方から質問や相談を受けるようになった。  加えて、部活動が茶道部から剣道部へと変わったため、放課後はみっちりとその指導にあたり、部活終了後に翌日以降の授業準備。  先生がそんなハードスケジュールをこなして帰ってくるのは、毎日二十一時を過ぎた頃だった。  化学の授業は毎日あるとは言え、担任でない先生と関わる時間はほぼ一切なし。朝も夜も顔を合わせるのは数時間程度。このまますれ違いの日々が続いたら……なんだか嫌な想像まで浮かんでしまう。  (だ、だめだめっ)  負の感情を払いのけるように、首を左右に振った。すぐネガティブになるのは俺の悪い癖。これでも、先生と暮らすようになってからはマシになったのだけど、まだまだ直す余地はあるようだ。まだまだ、足りない。  「お弁当のレパートリー増やさないとなぁ……」  毎日疲れた顔をして帰ってくるけれど、決して弱音は吐かない先生。そんな先生に俺が出来るのは、そういうことしかないから。出来る限り、忙しい先生のサポートをしたい。  そんなことを思いながら身支度をしていたら、いつのまにか時計は七時半を示していた。  (俺もそろそろ行かないと……)  カバンを持って、火の元を確認して玄関へ向かう。外に出て、鍵を閉めて、階段を降りて、学校へ向かって歩き始めて。そして。  「……?」  視線を感じて後ろを振り向く。確かな違和感があった。でもそこには、いつも通りの道が広がっているだけで、変わったことは特に見当たらない。  「気のせい、かな……」  考えすぎ。これも俺の悪い癖のひとつだから、直さなくちゃ。そんなことを考えて、俺は、その違和感を頭から消し去ってしまったのだった。    

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