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12.マトリ

 寝台の上で、マトリは体をまるめてクフクフ笑いながら、さきほどのことを思い出していた。 (アユイが、僕を)  ギュウッと自分を抱きしめて、よろこびを噛みしめる。思い切ってよかったと、アユイは背中を押してくれたメスに感謝した。 (明日になれば)  アユイが求愛をしてくれる。カブフリの捕らえてきた山の獲物よりも、おおきくてめずらしいクジラをしとめて。  たのしみだなぁと恋にとろけた目で、マトリは天井に吊るしている薬草類を見上げた。 「でも……大人が十人ならぶくらい、おおきいって」  どれほどのものなのか、想像もつかない。クジラの存在は知っている。子どものころに、その肉を食べたこともある。けれどそれは、切り身になって届けられたものだった。全体の姿を、マトリは見たことがない。 (絵は、知ってる)  頭がおおきくて、尾にいくにつれて曲線を描きながら細くなっていく。ヒレがあって、それを使って泳ぐ。模様として刺繍されたクジラが、海にいる姿を想像してみようとしたが、どうにもうまくいかない。 (明日は、はやく起きて漁に出る姿を見送ろう)  薬草をいくつか差し入れにして、漁の上首尾を祈って浜で待っていようと、マトリは決めた。  * * *  まんじりともせずに日の出を迎えたマトリは、薬草を手に浜へ駆けた。夜の名残が残っている浜では、おおぜいのオスが作業をしている。十人乗りのおおきな舟のそばに、アユイがいた。大柄な壮年のオスとなにやら話をしている。声をかけていいものか迷っていると、アユイが気づいた。 「マトリ」 「アユイ」  名を呼び、互いに近づく。 「どうしたんだ。こんなにはやく」 「気になって」  視線を落としたマトリは、腰に下げた袋を取って差し出した。 「薬草を持ってきたんだ。クジラはとてもおおきいって聞いたから、けがをするかもしれないと思って」 「そうか。ありがとう」  受け取ったアユイの指が、マトリの手にあたる。ピリッと電流が背骨に走って、マトリは背筋を伸ばした。 「マトリ?」 「なんでもない」  ほほえむマトリを気にしながらも、アユイは追求しなかった。 (やっぱり、僕のツガイはアユイだ。アユイだけ……アユイ)  すべてが欲しいと、想いを瞳に込めてアユイを見上げる。マトイの頬に、アユイの手のひらが添えられた。 「かならず、しとめて帰る」 「うん。アユイなら大丈夫だって、わかっているから大丈夫だよ。ここで、待っていてもいい?」 「いつになるかわからないぞ。すぐにクジラと出会えるわけじゃないし、しとめるまでに時間がかかる」 「わかっているけどさ……おかえりって、だれよりも先に言いたいんだ」 「そうか」  アユイの目じりがやわらかくなる。はにかんだマトリは、準備を続けているオスたちを気にして、軽くアユイの胸を押した。 「準備。途中なんだろう」 「ああ」 「行って」 「行って来る」  うん、と首を動かしたマトリは、準備を終えて朝焼けにかがやく海に出ていくオスたちを見送った。 (どうか、無事に帰ってきますように)  昇りくる太陽に祈りをささげたマトリは、舟の姿が見えなくなると、その場に座って海をながめた。  しばらくして、足音が背後から近づいてきた。潮の香りがあっても、だれが来たのか匂いでわかった。  緊張しながら振り向かずにいると、足音はマトリの真後ろで止まった。 「出たのか。漁に」  太く響くカブフリの声に、マトリは反応しなかった。 「クジラ漁に出ると聞いて、見に来たんだ」  カブフリはそれ以上、マトリに近づいてこなかった。 「あいつなら、やれる。クジラさえ姿を見せればな」  カブフリが動き、マトリとわずかな距離をあけて隣に座った。 「ほら」  竹の包みを取り出したカブフリが、それをマトリに差し出す。 「鹿の肉だ。待っているのなら、食べるものがあったほうがいい。昼前に帰ってくるなんてことは、ないだろうからな」  すこし迷って、マトリはそれを受け取った。 「ありがとう」 「あやまらないぞ」  礼にかぶせて、カブフリはぶっきらぼうに言った。 「俺は、本気でおまえをツガイにする気でいる。子どものころから、おまえがオメガじゃなくても、俺のものにすると決めていた」 「僕は――」 「まあ、聞けよ」  海に顔を向けて、カブフリは語る。 「俺は、おまえが俺を追いかけてくるのは、俺に惚れているからだと思っていた。ほかの連中もそうだ。だから俺がおまえに求愛をしたとき、だれもが納得をした。おまえが断るなんて、考えもしなかった」  フッと息を吐いて、カブフリは苦々しい笑みを唇に乗せる。 「皆、勘違いをしていたんだな」 「カブフリ」 「俺はアユイを認めている。子どものころから、ずっとだ。だから、あいつのやり方が気にくわなかった。腹が立つ、という意味じゃない。もどかしかったんだ。俺に引けを取らない実力を持っていながら、周囲に評価されないってことが。それをあいつに言ったことがある」 「……アユイは、なんて」 「気にするヤツだと思うか?」  ううんとマトリは首を振った。 「俺の対抗心は、空まわりだ」  やれやれと息を吐いたカブフリの横顔を、マトリはじっと見つめた。 「それが理由で、おまえに求愛をしたわけじゃないぞ」  視線の意味に気づいたカブフリに、問う前に答えられたマトリは奇妙な笑みを浮かべた。 「俺は真剣に、おまえをツガイにと考えている。――ほとんどの連中は、それが当然だと思っている」 「それは……うん。わかる、けど」 「だからアユイは、クジラを獲物にしたんだろう」 「わかるの?」 「当然だ。クジラをしとめたのなら、俺に対抗しうると皆が納得する。だから、見に来たんだ」 「アユイが、クジラをしとめてくるのを?」 「そうだ。それに、クジラの肉は子どものころに食ったことはあるが、捌かれていないものは見たことがない。どれほどのものか、興味がある」  カブフリの目に剣呑な光が宿り、唇が不敵にゆがんだ。 「それ以上に、やっと俺に対抗心を持ったあいつの顔を、見てみたいんだよ」  獰猛なくせに無邪気な気配をかもしているカブフリの表情を、マトリは不思議な心地でながめた。 (カブフリも、アユイに恋をしていたのかな)  自分とは違う形で、アユイを求め続けていたのか。彼の表情からそう察したマトリは、フフッと笑みをこぼした。 「カブフリはやっぱり、僕の恋敵だったんだなぁ」 「は?」  あっけにとられたカブフリの声がおもしろくて、マトリはクスクス笑い続けた。カブフリの表情がなごむ。 「恋敵だと思っていたのか」 「そう。だから、僕はカブフリになりたかったんだ。アユイはカブフリを見ていたから。カブフリみたいになれば、アユイに認めてもらえるって思っていたんだよ。だから、がんばっていたんだ」 「それを、俺が好きだから、俺とおなじようにしようと、食らいついてきていると勘違いをしたんだな。俺は」 「カブフリだけじゃないよ。皆、そう思っていたんだ。だから僕とカブフリが、ツガイになるって思い込んでいるんだよ」 「俺たち三人の関係を崩したくなくて、俺の求愛を拒んでいるんだと思っていた。そんなことをしても、いつまでもこのままではいられないと自覚させたくて、求愛を繰り返していたんだ。おまえにとっちゃあ、見当違いもいいところの迷惑行為だったな」 「関係を崩したくない……っていうのは、あながち間違いじゃないよ。それがあったから、僕はアユイに想いを伝えられなかったんだ」 「俺との関係が崩れることは、考慮の外だったってことか」  冗談めかしたカブフリの口調に、マトリは笑顔をひきつらせた。 「それは……だって、カブフリは求愛をしてきたから」 「関係を崩そうとしていたと言いたいんだな」 「うん」 「まあ、気持ちはわからなくもないがな。生きていれば関係は変わっていくもんだ。いつまでもおなじでなんて、いられないんだよ。下手に維持しようとするほうが、ずっとイビツだ」 「そんなふうに、考えていたんだ」  マトリはちょっと感心した。 「望まない方向に関係が変わったとしても、しかたねぇよな。他人の心を自分の思う通りに動かすなんて、できるわけがない」 「でも、そうなってほしいと考えて、いろいろなことをするんだ」  ふたりは黙って、海をながめた。 (僕はアユイに認めてもらいたくて、カブフリみたいになりたかった。それをカブフリもアユイも、ほかの皆も、僕がカブフリを好きだからって勘違いした) 「カブフリ」 「なんだ」 「カブフリがアユイを認めていたこと、僕はわかっていたよ」 「そうか」 「うん」  それだけアユイのことを見ていたから、と言いかけたマトリは口をつぐんだ。それは言わなくてもいいことだ。 「ねえ、カブフリ」 「ん?」 「アユイは、カブフリを意識していたよ。その目をこっちに向けたいって、無茶をしてしまうくらいに。たぶん、カブフリとは違う意味で、アユイはカブフリに対抗心というか、そういうものを抱えていると思うんだ」 「あいつは、俺と自分は違うと言ったぞ」 「それは、比べてみて、おなじようにはなれないっていうか、自分をより活かせる立場で間接的に対抗っていうか、そういう意味じゃないのかな。カブフリは皆を引っ張っていくのが得意で、アユイは後方から支援するというか、だれかを引き上げるのが得意で。それってどっちも大切で、どちらが欠けてもうまくいかなくて。そのバランスっていうか、そういうものが取れていないと、ちぐはぐになるっていうか」  うまく言えないなと、マトリはしゃべるのを止めた。頭の中で、ピタリと表現できる言葉を探す。 「なるほどな」  間をあけてから、カブフリがつぶやいた。 「俺はおなじ立場で競い合うことを求めた。アユイは違う立場で、互いの能力を最大限に活かせる道を選んだ。そういうことか」  端的にまとめられて、マトリはカブフリを見た。 「すごいね、カブフリは」 「なにが」 「僕の言いたいことを、すごくわかりやすくまとめてくれた」 「おまえはそれに気がつけた。俺は気がつかなかった。俺がすごいんじゃない」 「僕がすごいってこと?」 「そういうおまえだから、俺は惚れたんだ」  真剣な目に射抜かれて、マトリは身動きをやめた。どのくらい見つめあっていたのか。潮騒だけが空気を震わせるなかに、足音がまぎれた。 「あ、マトリ。カブフリも」  現れたのは、海の集落のものたちだった。漁に出られないオスやメス、子どもや老人たちがゾロゾロとやってくる。立ち上がったふたりを、集落のものたちが囲んだ。 「ちょうどよかった。カブフリくらい力のあるものがほしかったんだ。手伝ってくれないか」 「いったい、なにをするんだ」  海の集落のものたちは、手にしていた道具袋を浜辺に置いて、なにやら作業をはじめた。 「クジラはそのままだと運べないからな。ここで捌いて運ぶんだ。そのための準備がいるんだよ」  おおきな樽を手にした男に、マトリは「準備?」と問いかけた。 「クジラを解体する準備だ。皮と脂と肉。それと骨に分けてから集落に運ぶ。あんなもの、ここから集落まで運べないからな。マトリも手伝ってくれ。解体の時に砂がつかないように、作業場を作るんだ」  マトリはカブフリと顔を見合わせた。 「それだけすごい獲物を捕らえて、アユイは帰ってくるってことだな」  不敵に笑ったカブフリに、マトリもニヤリとした。 「カブフリと対抗できるくらいの獲物って言っていたからね」 「たのしみだ」  集落のものたちは、クジラはかならず届くと思っているようで、だれもが喜色を全身で振りまきながら、せわしなく動いている。その輪に交じって、マトリもカブフリも準備をはじめた。  クジラを解体したことのあるものが中心となって、知らないものたちに指示をする。子どもたちも自分のできる範囲で、たのしそうに手伝っている。そうこうしていると、話を聞きつけた森の集落や山の集落から、手の空いているものたちがやってきて、浜辺は祭前の様相になってきた。  昼時になると、各集落から料理が運ばれてきた。森や山でひと仕事を終えたものたちも、浜に集まってくる。集落の隔てなく集まった人々はみな、クジラという途方もなくおおきな獲物の到着を期待していた。  食事の席で、クジラ漁を経験した老人がどれほど大変なことなのかを語り、クジラの解体をしたことがあるものが、どんな手順でクジラを捌くかを説明し、子どものころにそれを見たものは、当時の興奮の思い出を披露した。 (こんなに、おおぜいが集まって待っているんだ。クジラを捕らえて帰ったら、だれもがアユイの実力を認める)  そして彼が求愛をしても納得をするはずだと、マトリはカブフリを横目で見た。視線に気づいたカブフリが、期待に満ちた顔でニンマリとする。カブフリもおなじことを考えているのだと、マトリにはわかった。しかし周囲はそう思わない。 「あらあら。視線で会話をするなんて、妬けるわねぇ」  冷やかしの声が上がると、ほかの面々も次々に、いずれツガイになると思い込んでいるふたりを、からかう言葉をかけてくる。マトリは苦笑し、カブフリは軽く肩をすくめて、それらを聞き流した。 「さあ、準備は整った。あとはクジラが到着するのを、のんびりと待つとしよう」  それを合図に、皆が声をひとつにして「おう」と答えて海を見た。  舟の姿は、まだ見えてこない。

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