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13.アユイ
舟の群れが海の上を行く。壮年のオスの指示で沖に進んだアユイたちは目を凝らして、鳥の群れを探した。鳥が立ち上る陽炎のように群れている場所には、魚の群れがいる。それを追ってクジラが来る。その場所を探し、彼等は舟を漕いでいた。
すぐに見つかるとは、だれも思っていない。長丁場になると経験者は説明をしていたが、はじめてクジラ漁に出た若者たちは、全身に期待と緊張をみなぎらせていた。
「そんなふうだと、クジラが出るころには気疲れをして、集中できなくなるぞ」
「わかっていますよ。でも、なんかこう、ワクワクして」
そんな会話を耳にして、アユイは頬を持ち上げた。
(俺も、肩に力が入っている)
余計な意識は持たないようにしなければ、筋肉が硬くなって普段通りの動きができなくなる。頭ではわかっているのだが、未知の獲物に挑む緊張と、かならず成し遂げなければというプレッシャーがアユイを包んでいた。
(マトリ)
浜で待ち続けるマトリのもとへ、はやくクジラを届けたい。そう思っても、相手はこちらの望むとおりに出てくるわけではない。
(はやく、姿を現せ)
海に向かって声をかけ、アユイは銛を握りしめた。
それから一時間ほど経っても、クジラの影も鳥の山も見えなかった。そのころになると緊張していたものたちの気もゆるむ。今日の獲物はクジラと決まっているので、ほかの魚は狙わない。普段の漁とは違って、舟の上でひたすら獲物を探す時間は、手持無沙汰だった。
(これがカブフリなら、海に潜ってクジラを探すと言い出しそうだな)
いくら泳ぎが達者なものでも、クジラほど深くは潜れない。そうとわかっていても、カブフリなら皆の気を引き立てるためにパフォーマンスとしておこないかねない。
「釣りとおなじだ。気長でないと、大物は狙えないぞ」
壮年のオスたちは、ゆったりとした態度でいる。年齢を重ねたがゆえに醸し出せる鷹揚さと言えばいいのか。それをカブフリが手に入れれば、すべての集落を束ねて導くリーダーになれると、クジラを探しながらアユイは考えた。
(釣りは、マトリのほうが向いていたな)
クジラを捕らえて求愛し、正式にツガイになったらマトリを釣りに誘ってみようと、アユイは考える。ふたりで海に出て、マトリは釣りをし、アユイは銛で魚を捕らえる。あるいはふたりで釣りをたのしむ。
これからのふたりの生活を夢想しながら、そのために必要な獲物を目を凝らしてアユイは探した。
「あそこ!」
鋭い声が飛び、全員がそちらに目を向ける。白いものが海面すれすれに舞っている。
「鳥の群れだ」
ゆったりしていたものたちが、にわかに臨戦態勢を取った。ぶわりと海面が盛り上がり、黒々としたものが浮き上がる。
「クジラだ!」
クジラは頭を出すと、ゆっくりと沈んで尾びれを持ち上げ、姿を消した。
「次に上がってきたときを狙う。頭を囲うぞ」
クジラの姿を求めて、舟が進む。漁のリーダーとなっているオスが目を光らせて、舟の位置を指示した。
「用意はいいか、アユイ」
唇を引き結び、アユイはうなずいた。
「来るぞ!」
入念に手入れした銛を握り、アユイは飛びかかる姿勢になった。小山ほどもある黒い塊が、海の中から持ち上がる。
――クジラのここを、確実に打て。
自分の脳天をつついた長の姿を思い出し、アユイはグッと腰を落とした。
「アユイ!」
合図とともに、アユイは高く飛び上がった。銛の先端に全体重を乗せてクジラの頭を狙う。
「おぉおおおっ!」
ドッと突き立つ手ごたえを感じたアユイは、銛のしなりを利用して舟に戻った。
「アユイに続け!」
「おおっ!」
銛を手にしたものたちが、クジラの頭上に舞っては舟に飛ぶ。クジラの尾に気をつけながら、小回りの利く舟を中心にクジラを追い詰め、手持ちの銛を次々にクジラに打った。経験者のオスが海に飛び込み、クジラの鼻先に鉤をかける。
「行けるぞ!」
次に飛び込んだものがクジラの下に潜り込み、大型のナイフで腹を切り裂いた。海の水が赤く染まる。
「油断をするな! まだ終わりじゃない」
血の匂いに引き寄せられて、サメが現れる。ここからクジラを浜に上げるまでが肝心だと、全員が気を引き締めた。
「行くぞ!」
突き立てた銛についている縄を、すべての舟が引いて運ぶ。海の浮力があっても、クジラは重かった。進む後に、赤色の道ができる。
(サメに食わせてたまるか)
わずかでも欠けさせてなるものかと、アユイは櫓をこぐ腕に力を込めた。
浜が見えてくると、おおぜいの人が集まっているのがわかった。丸太が波打ち際に向かって並べられている。
「帰ってきたぞ!」
「クジラを上げるぞ!! 手伝え」
浜からの声に、漁のリーダーが答える。ワッと歓声が上がり、そのなかにマトリの姿を見つけてアユイはほほえんだ。
(あとすこし)
ギッと櫓が音を立てる。海に入ってきたオスたちが、次々にクジラに鉤を打ちつけて丸太の上に巨体を乗せる。
「せぇーのっ! よいしょー!!」
掛け声とともにクジラが浜に引き上げられた。巨体をはじめて目にしたものたちが、零れ落ちそうなほど見開いた目をかがやかせる。
「一番銛は、アユイだ! アユイがクジラをしとめたぞ!!」
漁のリーダーの宣言に、アユイをたたえる声がひびいた。照れくさくなったアユイの背を、漁に出たものたちが押して前に出させる。人々の間から、カブフリに腕を引かれたマトリが連れ出された。
「カブフリ」
「俺を気にするのは後だ。さきに言うべきことがあるだろう」
ニヤリとしたカブフリの意図を汲み取って、アユイは目顔で礼を言うとマトリを見た。緊張と安堵をない交ぜにしたマトリの姿に、アユイの心が熱くなる。
「マトリ」
「おかえり、アユイ」
「ただいま。約束どおり、クジラをしとめてきたぞ」
「うん。すごく、おおきいね。思っていたよりもずっと立派で、びっくりしたよ」
ふたりのやりとりに、衆目が集まる。カブフリは腕組みをして、さっさとしろと顎でアユイをうながした。
「俺と、ツガイになってくれ。マトリ」
「――はい」
答えたマトリの背中をカブフリが押す。たたらを踏んだマトリの体が、アユイの腕の中に落ちた。
「マトリはカブフリとツガイになるんじゃなかったのか」
「どういうことだ、これは」
ざわめきが広がる。説明をしようと口を開いたアユイを、カブフリが手のひらで止めた。
「マトリはアユイとツガイになる! 俺じゃない。――どうだ、俺はフリーになったぞ? うれしいメスは、いるんじゃないか」
ニイッと犬歯を見せたカブフリの堂々とした姿に、だれもが疑問を持ちつつもそれ以上はさざめかなかった。
「それよりも、クジラだ! さっさと解体をしないと、日暮れてしまうぞ」
カブフリの仕切りに、彼等の関係を気にしつつも、皆はクジラの解体作業に取りかかった。
「ありがとう、カブフリ」
「なにがだ」
「やっぱり、おまえはリーダーだ」
よしてくれとカブフリは片手を振った。
「振られた相手をほめるなよ」
「それとこれとは、関係ないだろう」
「ちょっとひがんでみただけだ。気にするな」
カラッと笑ったカブフリに「ひがむ」なんて単語はすこしも似合わなかった。
「マトリから聞いた。俺の勘違いだってな。だから、俺に遠慮をする必要はない。おまえの実力は、あのでっかいのが周知してくれた」
「ひとりで捕らえたわけじゃない」
「狩りはひとりでするものじゃない。協力をして、獲物は皆で分け合うものだ。クジラ漁がどんなものかは、話で聞いた。一番銛がうまくいかなきゃ、しとめられないんだってな」
カブフリの手が、ねぎらうようにアユイの肩に乗せられる。
「さすがは、俺の認めた唯一のオスだ」
「カブフリ」
「俺がリーダーでいられたのは、おまえがいたからだ。わかっていたんだ……だからこそ、おまえと競いたかった。ああ、マトリのことは違うぞ。競うために求愛をしたわけじゃない」
「わかっている」
「完敗だ」
両手を上げたカブフリが、右手を差し出す。アユイも手を差し出して、ふたりはしっかりと握手した。そこにマトリの手が添えられる。
「ありがとう、カブフリ」
「ツガイにはなれなかったが、まあ、これまでどおり仲良くやろう」
「カブフリ、僕は」
「振った相手に、あれこれ言うもんじゃない。だいたい、マトリみたいな気の強いのは、俺には向かないんだ。見てくれだけじゃなく、中身もしとやかな相手をツガイに選ぶとするさ」
じゃあなと手を振って、カブフリもクジラの解体作業に加わった。彼の心中を思って、アユイは口元を引き締める。
「マトリ」
呼ぶと、おなじようにカブフリの背中を見ていたマトリが、顔を上げる。
「これから、ともに生きていこう」
「うん」
はにかんだマトリを、アユイはしっかりと抱きしめた。
* * *
クジラの解体が終わり、宴会がはじまった。動けないものを健康なものたちが抱えて、集落から連れ出し、浜辺にはすべての人狼が集まった。ひさしぶりのクジラの肉に舌つづみを打つもの、はじめて食べるクジラ肉におどろくもの。解体を目にしたものたちが、姿を見ていないものに語り、漁に出たものはしとめるまでの話を披露し、ちいさな子どもはそれを聞いて漁のまねごとをはじめて遊んだ。
そのなかで、マトリとアユイがツガイになった経緯の説明も乞われた。どう言えばカブフリの評判を落とさずに、皆を納得させられるか。それを考えるアユイをよそに、カブフリは笑って言った。
「経緯もなにも。ただ俺が振られただけだ。皆が俺とツガイになるもんだと思っていたから、言い出せなかったらしい。だからクジラを捕まえて、堂々と宣言しようって話になったんだよ」
カラッとしているカブフリのそばには、彼に熱っぽい視線を送るメスの姿がちらほら見えた。ひそかにカブフリを想っていたものたちが、ツガイの座は空白とわかってアプローチをかけることだろう。
(すぐに、とはいかないだろうが)
いい相手を見つけてほしいと、アユイは思う。
(マトリを奪った俺が願うのも、おかしいのかもしれないが)
「カブフリには、おとなしくてやさしい相手がいいと思うんだ」
「ん?」
マトリのつぶやきに、アユイは酒を呑む手を止めた。
「家の中では気を張らずにいられる相手でないと、疲れが取れないからね」
「マトリがツガイだと、家の中でも疲れると言いたいのか」
「僕は気が強いから。――だから、アユイじゃないと無理なんだ」
照れ笑いするマトリの肩を、アユイはそっと抱きしめた。
「海の集落と、森の集落と。どちらに住みたい? マトリの好きなほうで、ふたりの生活をはじめよう」
すこし考えてから、マトリは「海」と返事した。
「海の集落からでも、森には行けるし。ただでも、森の集落の小屋は、できれば残しておきたいんだ」
「どうして」
「薬草を干して保管するために」
「潮風が心配か?」
ううんとマトリは首を振った。
「薬草の匂いに、アユイの匂いの邪魔をされたくないから」
真っ赤になったマトリのうなじを、アユイは指先でくすぐった。
「俺も、薬草の匂いでマトリの匂いが邪魔をされるのはいやだな」
「アユイ」
うるんだマトリの瞳に、アユイの胸が熱くうずいた。ギュッと引き絞られた心に、甘いマトリの匂いが触れる。
「抜け出そうか」
マトリの香りに酔いながら、アユイは耳元でささやいた。ふるっとちいさくマトリが揺れる。
「でも、皆が……アユイは、主役みたいなものだし」
「主役はクジラだ。俺がいなくなっても気にはしないさ」
こんなふうに自分がマトリを誘うなんて、アユイは信じられなかった。意識とは別のところが唇を動かして言葉を紡いでいる。
(これは、俺の本心だ)
ずっとカブフリとマトリの気持ちを誤解して、遠慮をしていた。しかしもう、そんな気遣いは必要ない。マトリはアユイを選んだ。はじめから、マトリの気持ちはアユイに向いていた。
「ツガイになろう。正式に」
抑えていた想いがあふれる。マトリの発情の匂いが、アユイの気持ちに拍車をかけた。意味を察したマトリの呼気が艶めいて、アユイの腰が熱を持つ。
「――うん」
ちいさな声で答えたマトリを、アユイは抱きしめその場を離れた。
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