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病院のロビーはしんとしていた。ざあざあと降る雨の音だけが、寂しく響いている。
玄関に設置してあるタクシー呼出用の電話の前に立つ。しかし、なぜか手が動かない。行先が、決まらなかった。
そのまま、家に帰ればいい。そうわかっているのに、胸の奥から突き上げるように「それではいけない」と自分自身が叫んでいる。この雨の中で、待っている人がいるかもしれない。この暗く冷たい空の下で、きっと――。
「――もしもし」
ふ、と頭の中に、白い光が走る。初めて、彼と出逢った日――まっすぐな瞳で僕を見て、白い薔薇の花束を渡してきた、暁くんの顔が頭の中に浮かんできた。あの時の僕は、突拍子もない彼の行動にひどく驚いていた。唖然としていた。しかし、それからずっと、何度も彼のことを思い出しては、冷たく息をひそめていた心臓が鳴き声をあげるような感覚に陥っていた。その感覚は、怖かったのに、何故か不快ではなかった。
気付けば、僕は電話をとっていた。
「タクシーをお願いしたいのですが」
『はい。お帰りはどちらになりますか?』
「……××駅です」
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