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初めて彼とひとつになった日の余韻は、まだ胸の奥に淡く灯っていた。数日が経ったある午後、アムルーズの扉がそっと開く。
ガラス越しの光を背にして入ってきた暁くんは、ほんのりと頬を赤らめ、けれどもいつものように太陽のかけらを連れてくるみたいな笑顔を浮かべていた。
「……こんにちは」
それだけの挨拶なのに、どきんと心臓が跳ねる。まだ、あの日を思い出すだけで体の奥がざわめいてしまうのだ。
「いらっしゃい、暁くん」
努めて穏やかに返したけれど、自分の声の揺らぎに気づいてしまう。
彼は少し歩み寄って、花々を見渡し、それから――僕を見た。
「今日も、きれいですね」
花のことを言ったのか、それとも僕に向けられた言葉なのか。どちらとも受け取れる声音に、胸の内がふっと熱を帯びる。曖昧さのなかに潜む優しさが、余計に心をかき乱していく。
ほんの数日前まで、触れることすら恐ろしくて仕方がなかったのに。今はただ、彼が差し出す言葉ひとつで、世界が薔薇色に染まっていく。
僕は息を吐いて、ふと思いつくように口を開いた。
「そうだ」
「え?」
「ねえ、学生くん」
唐突な呼び方に、暁くんが目を丸くする。頬がますます赤くなって、視線が泳ぐ。
「が、学生くん……!? 朝霧さん、なんですか、それ」
困惑する彼の様子に、胸の奥で小さな悪戯心が弾ける。僕だって、彼を少しは揺さぶりたい。
「レモンの花の花言葉、調べてみた?」
「……あ、……すみません。忘れてました」
しゅんとしたような、でも誠実なその顔が、いっそう愛おしい。
僕は花瓶に生けてあるレモンの枝をそっと指で撫で、彼に向き直る。
暁くんは、目を見開いて、すぐに柔らかな光を宿す。その瞳が僕を映して、きらきらと揺れる。
太陽のようにまぶしい人。その人に伝えたい想いをのせて、花言葉を伝えた。
「――“恋”って意味だよ」
第三章~彼は誰時、レモンの花~ 了
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