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第78話
泥まみれで黒く濁りきった水の中に派手なアロハシャツを身につけたままの光は……いや、かつて光だったモノはぷかり、ぷかりと浮かんでいる。
深さ自体は然程深いものではないようだが、それでも―――人一人が沈んでしまうとその命を奪いかねない程に危険だというのが何となく分かる。
頭上に広がる雲ひとつない澄みきった青空と屋敷のすぐ側に盛大に広がる茶畑から香る茶葉の香ばしい匂いとは対照的に、その古びた井戸の中に広がるのは泥と黴にまみれて思わず鼻をつまんでしまいそうになるくらいの不快な匂いと――墨汁でも垂らしたのか、と思わずを得ない程に真っ黒で濁りきった井戸水だった。
その黴と泥からくる独特な生臭さから――今まで屋敷にいた時生臭さに気付いていなかった僕以外の皆も流石に顔をしかめている。
しかし、何よりもこの場にいる皆の目が釘付けになってしまったのは、かつて《光だった筈のモノ》の異様でおぞましい姿―――。
井戸の水から半身だけ出ていたため、下半身は汚い井戸水に浸かっていてよくは見えないものの――《光だった筈のモノ》が口に何かを咥えているのが見える。
それは、夢月が半ば強引に捕らえて水槽にいれた筈の―――《忌髪魚》……なのかもしれない。
はっきりと断言出来ないのは《光だった筈のモノ》の髪の毛に何匹もの《忌髪魚の群れ》が食らい付いていて――それをむしゃ、むしゃと実に旨そうに食っているからだ。
「いけない……こうなった以上、水抜きをして……あれを引き上げなくては―――少しだけ待っていてくれ……」
(こんな異常事態になっても薫さんは――実の弟の名前すら呼ばないんだ……まるで氷みたいに冷たい人だ……)
そんな事を思いながら――早足で何処かへと向かう薫さんの後ろ姿を目で追いつつも、井戸の中から漂う泥と黴の混じった強烈な生臭さと《忌魚魚の群れ》が《光だった筈のモノ》の髪の毛を競うように無我夢中で食いつくしている異様で凄惨な光景を目の当たりにした事からくる目眩により脱力し、そのままふらりと前方へ倒れてついてしまいそうになるのだった。
「―――日向……っ!!?」
――ガッ……
井戸の中に落ちてしまいそうになる僕の体を咄嗟に掴んで阻止してくれたのは、父さんでも夢月達でもなく―――何故か、どことなく怒ったような表情を浮かべて僕の名を叫んだ日和叔父さんなのだった。
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