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第164話

「く、くそっ…………おい、糞ったれ―――騒ぎになる前に逃げ……っ……」 ぐいっ…………と【市正鬼助】に逃げられる前に僕は彼の腕を渾身の力を込めて掴む。自分が今、どんな顔をしているのかは鏡などない林の中だから分かりようがないけれど―――きっと僕は今の状況には似つかわしくない笑みを浮かべているのだろう。 父さんが―――どことなく不安げに僕の様子を伺っている。 【父さんに助けてもらって申し訳ない】のと【こんな状況に巻き込んでしまって申し訳ない】という罪悪感に苛まれているというのに―――まるで始めて自慰行為をして欲望を吐き出した時みたいな抗いがたい快感に身も心も憑依されてしまっているという、どうにも奇妙な感覚が僕に襲いかかってくる。 もはや、先ほどまで忌々しい【市正鬼助】に怯えていた事など―――夢を見ているかの如く忘れ去ってしまう程に気持ちがいい。 それと同時に、今まで僕に対して酷い言葉を投げ掛けてきたり下品な目に合わせようとしてきた【市正鬼助】に対して―――どうしようもないくらいの憎悪がフツ、フツと心の底から沸いてくる。 (だ、駄目……っ……父さんに……迷惑かけちゃう……駄目……駄目……) 心の片隅に潜んでいる自分が、別人のように憎しみを抑えられない自分に対して必死で叫んでいるような奇妙な感覚―――。 しかし、それよりも今の僕は―――憎い【市正鬼助】の顔を殴り、一泡吹かせたいという願望が父さんに迷惑をかけるという罪悪感を遥かに上回っていた。 「……や……こんなものじゃ…………だ、めだ……もっ……と……もっと……」 と、無意識の内にブツブツ呟きながら、雨が降ってもいないのに湿り気のある地面に目線を移してから身を屈め、大人を殴りつけるのに充分すぎる程に大きめな石を拾い上げようと手を伸ばした時―――、 ライトの白い光で複数人から、唐突に顔を照らされ―――僕はそのまま操り人形の糸がプツリと切れてしまうかのようにふっ、と意識を手放してその場に倒れてしまう。 世界で一番大事な父さんと、僕が大好きな【家族達】が慌てふためく声を子守り歌みたいだ、と朧気に感じながら―――やがて、かろうじて半開きとなっていた瞼は完全に閉じてしまうのだった。

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