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第236話
「う……っ……ううっ____」
桐たんすを開けてから、おそるおそる中を覗くなり、あまりにキツい芳香に思わず両手で口元を塞ぎながら身を屈めてしまった。
「お……おい……っ____大丈夫かよ!!」
「日向くん……いったい、どうしたんだ!?」
桐たんすを開けるなり口元を抑えつつ前方へと倒れ込むような形で身を屈めた僕の様を目の当たりにした小見山くん達が慌てて近寄ってきて尋ねてきた。
それを言うなら、僕にも彼らに聞きたい。
これ程までに、吐き気を伴うような強烈な甘い香りが桐たんすの中から放たれているというのに彼らは何故平気なのだろう。そして、何故――僕だけが甘い香りに襲われているのだろうか。
普通、ここまで強烈な甘い香りが漂えば顔をしかめるなり口元を抑えるなりして反応するはず。彼らが無臭症じゃなければの話だけれど、そんな事情は聞いたことがない。
(つまり、僕だけが……粘つくような謎の視線とか――この鼻がもげそうになるくらいの甘い香りを感じてるってわけか……ってことは……この黒地蔵の件も……やっぱり怪異なるモノが____)
「ん……これは____黒百合か?何だか、不吉だな……って……こ、これは……こ……こんな場所に……いたのか……っ……」
ふと、小見山くんのお父さんが完全には動揺を隠しきれていない珍しく弱気な声が聞こえてきた。
閉鎖的で都会に比べると目立った事件(怪異なるモノが引き起こすものは覗く)が少なく、田舎の警官とはいえベテランの部類である彼がここまで慌てふためく声をあげるというのは珍しいことだ。
何とか、むせかえる程の甘い香りが引き寄せる吐き気をこらえつつ、ハンカチで口元を抑えたままバンビみたいにヨロヨロとした足取りで再び桐たんすの方へとゆっくり進んで行く。
「……っ____く、黒い……百合が……こんなにいっぱい……」
「お、おい……日向――お前……もう、これ以上は見るな!!何か、うまく言えねえけど……嫌な予感がする」
小見山くんがそう言った途端に先ほどまでのむせかえるような甘い香りは徐々に柔らぎつつあるというのに、その代わりといわんばかりに僕の耳にだけ届いているであろう《女の人の泣き声》の音量が段々と大きくなっていく。
僕は、自然と鳥肌がたってしまうくらいに不気味かつどこかで哀れみを覚えてしまう泣き声から逃れたいがゆえに――半ば無意識のうちに、その規則正しくぴっちりと横並びしている何十本もの黒百合を勢いよく手で払いのけてしまった。
きっちりと列を保ち、尚もむせかえる程の甘い芳香を放ち続けていた黒百合の花を手で払いのけてしまったのは、何も桐たんすの中から聞こえていた《女の人の泣き声》が気味悪かっただけじゃない。
僕の脳裏に、今は亡き愛しいママの顔が浮かんだせいだ。
この甘い香りは、生前ママが纏っていた香りとよく似ている。どうしてだろう、と記憶を頼りに思い出してみると――その原因が分かった。
今、桐たんすの中から放たれているこの香りは、ママがつけていた香水のものとよく似ていると____。
それが分かってしまった僕は妙な胸騒ぎを感じて、さっきよりもずっと怖くなってしまったけれど黒百合の花をどんどんと横へと手で払いのけていく。
「ひ……っ____ひ……ぃっ…………!?」
声が引きずってしまったのは、そこに仰向けになった黒地蔵が現れたせいだ。
黒地蔵とは、この村では《遺体》のこと。つまり、この黒地蔵は____。
「……チ、チ……チュウ……さん……っ……!!」
それしか言葉に出せなかった僕は、情けないことにその場で気絶して倒れてしまった。
小見山くんと彼のお父さんが慌てて此方へと近寄ってきた足音や声が聞こえたのを最後に僕の意識は途絶えてしまったのだった。
*
これは、僕が目を覚ましてから申し訳なさそうに謝ってくれた小見山くんのお父さんから、その後で聞いた話になる。
桐たんすの中で仰向けになった状態で、首に紐状のもので締め付けられて既に息絶えている黒地蔵は黒い生地に赤い蝶の刺繍が施された着物の身に纏い、尚且つ両足が切断された無惨な姿となって発見された。不気味なことに青白い両腕で切断された状態の右足を大事そうに抱えていたという。
その黒地蔵が大学生メンバーの《チュウ》こと中田だと決め手になったのは、僕が気絶する前に叫んでしまったことと、彼が生前好んでつけていた《ヨーコちゃん》というアイドルをアニメ的にデフォルメした髪止めが黒地蔵の側に落ちていたためだという。
しかし、奇妙なことに――《チュウだった黒地蔵》が抱えていた右足は彼のものじゃなかったそうだ。
じゃあ、いったい――その右足は誰のものだというのだろう。
僕が聞いても、僕を気遣ってくれているのか――それもとまるっきり分からないのか小見山くんのお父さんは教えてくれなかった。
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