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第258話

暫く光太郎を含めた三人は、その場に佇むしかなかった。 季節は真夏だが、光太郎がカプセルを投げ入れた直後から辺り一面に冷気が漂い始め、それはやがて人間である彼だけでなく【かつて怪異なるモノ】という存在であった普通の人間ではないカサネや小鈴にまでまとわりついていき、あっという間に体の自由を奪ってしまったからだ。 ついさっきまで、ちゃぷちゃぷと波打っていた水面は氷に包まれていき、更に中央にはさほど時間がたたぬうちに、いつの間にか氷柱が現れると、その上に一匹の猫がすました様子でちょこんと座っていることに気が付いた。 更にいうと、その氷柱の周りにおびただしい数の【虫】や【小魚】やら【亀】の亡骸がくっついていることに気付いた光太郎は予想だにしていなかった事態にはっと息を呑んでしまう。 そうやって三人が訳も分からずに立ち尽くしている間にも、【金魚沼】の異変は進んでいき――やがて、水音すら聞こえない静寂が再び辺りを支配する。 「お、おい……っ____あれ……っ……あれを見てみろ!?」 そこに猫がいることに最初に気が付いたのは、沼の周囲にばかり気をとられていた光太郎ではなかった。 ましてや、両手で頭を抱えているような体勢で二人と比べると小柄な体をガタガタと震わせて怯えている小鈴でもなかった。 カサネが、それに気が付いて指で【金魚沼】の中央付近を指差しながら周囲に響き渡り、それによって我慢できずに思わず耳を抑えてしまうくらい喧しい声で叫ぶ。 今や天にまで届きそうなくらいに高く積みあがった氷柱の――いや、むしろこの異様かつ陰気な雰囲気が漂う【金魚沼】の支配者だといわんばかりに、真下にて身動きとれずにいる此方を宝石のように美しい瞳で見下しつつ、瞳孔はふくらんだり縮まったり繰り返しているように見えて、咄嗟に光太郎は警戒心を抱いてしまう。 もちろんカサネが先に気がついて声をあげたことも警戒心を抱いたきっかけになったのもあるのだが、おそらく単純なカサネはただ単に沼の中に猫がいるという表面的な事実にしか驚いていないのだろうと、この異様な状況にさらされているにも関わらず光太郎は冷静に推察した。 (この際、ここにあの変な猫が現れたのはどうでもいい……ただ、あの猫の低い姿勢は……こっちに興味を抱いているサインだ……っ……そして、さっきカサネの奴は大声を出してしまった……つまりは、それがきっかけで、あの猫はぼくらを都合のいいオモチャだと判断したに違いない……いや、そもそもあの猫の正体は何なんだ――ヤツら特有の匂いがしない、あいつは怪異なるモノじゃない筈なのに何で僕らに敵意を向けてくるんだ) だが、内心では混乱だらけだ。 ____と、そんな冷静を装い続ける光太郎の眼前に突如として針のように鋭く尖った細長い氷柱が凄まじい速さで迫ってくる。 これには、流石の光太郎もあまりにも突然なことに咥えて言葉にできないくらいの強烈な恐怖心に囚われてしまい、直接言葉には出さないものの怯えきってしまう。 もう少しで涙が浮かぶ右目に突き刺さる、と本能的に閉じてしまったのだが、予想した通りのことは起こらない。 【不可思議な猫】は、光太郎の右目に凄まじい速さで針さながらの氷柱による攻撃を仕掛けたにも関わらず、ほんの直前で――それを止めたのだ。 もちろん、何でかなんて主人の姿を見失った子犬みたいに怯える光太郎には分かりようがない。 「お……っ……お前____いったい何が目的なんだ?どうして、こんな場所にいる?どうして、僕らに危害をくわえようとしている?それに、どうして……そんなに異常な姿をしていて変な力があるくせに……怪異なるモノが放つ匂いがしないんだ?」 光太郎から、余裕が失われてしまった。 今までは周りの大人達から下に見られないように、そして村を追われるという怪異なるモノが見える兄の日向が辿った悲惨な目に合わないように必死で優等生を演じながら生きてきた。 自らの意思をもって故郷である村を出るという選択をしてまでもだ。 でも、今は違う。 偽りの皮を被った優等生という立場など忘れ去るくらいに、恐怖心を抱いたせいで、子供らしからぬ冷静な口調ではなく――光太郎本来の声が無意識のうちに【不可思議な猫】へと向けられたのだ。 【どうして……??どうして、だって?まったく、おかしなことを言うもんだね。この時代の人間は……。いくら子供といえども、少しは考えるということをしないのかな?いいかい、今――キミらがここにいるのは逃れられない運命という首輪に繋がれているからなのさ。まあ、ただ……この私が怪異なるモノでないことを見破ったのは純粋に褒められるべきことだろうけどね……】 すとっ____と氷に覆われた水面に軽やかに飛び降りて、ぐいーっと体を伸ばしながら寛ぐ【人語を発する不可思議な猫】は両目を閉じているにも関わらず、まるで全ての風景が見えているかのように光太郎へ向けてからかうかのように言い放った。 その口調は教師が生徒に向けてたしなめる時のような決して心地よいと感じるものではないが、そんなことすらどうでもよいと感じるくらいには良くも悪くも興味を抱き、光太郎はぎろりと【人語を発する猫】を睨み付けるのだった。

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