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第269話 ※流血表現注意

だけど不思議なことに、僕らの目の前に女の人が姿を現したわけじゃなかった。 悲鳴は割とすぐに聞こえなくなり、まるで石を投げ込んだ直後の時のように水飛沫がひとつ跳ねたかと思うと、少ししてから水中からクラスメイト達が意気揚々と噂していた本物の【ヌシ】が姿を現したのだ。 その【ヌシ】の正体は僕が想像していたような姿ではない。僕はてっきり【ヌシ】は魚の姿をしているものだと思い込んでしまっていた。 そうはいっても、噂話で盛り上がっていたクラスメイトの話の中には『ヌシは昔の格好をした男の人』というものがあったから、その正体がたとえ人間の姿であっても多少不思議な思いを抱くことはあっても【ヌシ】が人の姿形をしていても、そこまで驚愕することはないだろうと思っていた。 しかしながら、【ヌシ】の正体はとても意外なものであり、そして途徹もなく神秘的な存在であるため、僕は思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。 沼の中央から巨大な植物が勢いよく伸びている。【金魚沼のヌシ】の正体は黄色く咲き誇る花びらが優雅で、つい見惚れて目が離せなくなるくらいに魅惑的で巨大な一本の【金魚草】なのだ。 更に、クラスメイト達が話していた噂話の続きを思い浮かべる。 『ヌシはね、呼び出した者の願いをひとつだけ叶えてくれるのよ。もちろん呼び出す人によって願い事は様々なんだけど、ひとつだけなら――どんなことも叶えてくれるんですって____でも――』 と、ここで記憶はブツッと途切れてしまう。 クラスメイトの強気な女の子の言葉は、他にも何か言いたげだったが、どうしてもそれ以上は思い出せない。 (僕の願い____それは……っ……) 「ここにいる亞戯の口から、あの日の惨劇の真実を教えてほしいんだ。嘘偽りのない真実を____」 本来ならば《亞戯を今すぐにでも消滅させてほしい》と願い事をするべきなのだろう――と散々悩み抜いた結果、結局は【あの日】に起きた惨劇の真実を知るということを重要だと思い直した。 そして、亞戯が惨劇について嘘をついていることを薄々勘づいている光太郎だって、それを望んではない筈だ。 だからこそ《あの日》の出来事を短い時間とはいえ不思議な現象で追体験した僕が責任をもって今も苦しんでいる初実さんや竹造さん を救うために勇気を振り絞って口を開く。 「真実を言わないんなら、ここにいるイギを酷い目に合わせるから……」 僕の呟きに合わせるかのように、再びカサネや日和へ攻撃を仕掛けようと威嚇していた亞戯の体は段々と脱力していき、やがてその動きを止めると力無く地に伏せてしまう。 【あの日、の真実――か。いいぜえ、教えてやるさ____】 しゃがれた声愉快そうに言い放ったのとは裏腹に、地に伏せている【亞戯】の顔は屈辱で歪んでしまっているのが分かる。おそらくだけれども、今《あの日の真実》を話しているのは【亞戯】の意思に関係なく喋らされているのだろう。 むろん、そういうことになっているのは僕のせいなんだけれど____。 それでも、後悔なんてない。 それでうまく《あの日の真実》に未だに縛られ続けている竹爺や花蓮さん、それに彼らの娘である初実さんが救わられるんなら、たとえ何があっても気にはならない。 ※ あの日、【亞戯】こと阿久津は花蓮さんと共に喫茶店へ行ったこと。 そして、後で来ると約束していた【イギ】を二人で待っていたこと。 ここまでは、特に【嘘】はないし僕が追体験したのと同じだ。 しかし____、 『あ……っ……済まない____』 【亞戯】は店内で手洗いに立った際に、客である女性徒の一人とぶつかってしまったのだ。更に、それが同じ学校のクラスメイトだと気付いたのだが、今まで碌に話したことがないため軽く謝って用を済ませた。 『あら、阿久津さん……どうかされました?』 『い、いえ…………』 花蓮に聞かれ、そう答えたものの女生徒が座る席から凄まじい視線を感じる。そして、その視線から漂う圧力はそう簡単には阿久津を解放してはくれない。 だからこそ、阿久津は堪えきれなくなり不意に顔をあげてしまったのだ。そうすることにより、意図せず女生徒と目が合った。 その瞬間、目に見えてはいないにも関わらず阿久津は全身を何者かによって締め上げられるかのような不快な感覚に陥った。 先程、水を飲んだばかりなのに口はからからに渇き額から汗が滲み出る。いくら夏の盛りとはいえ喫茶店の室内の温度はそれほど高くなく、むしろ開け放たれた窓から吹き付ける風のおかげで、いつもよりも涼しいくらいだというのに____。 そして、はっと我にかえった阿久津の眼前に飛び込んできた光景は正に阿鼻叫喚であり、ラッパ型の蓄音機からはピアノが奏でる緩やかな音調が魅力的なクラシック音楽が聞こえてくる。 しかし、その美しい音楽に耳を傾ける者は誰もいない。 店員も、客も――己以外の者達が体から血を流し床に倒れ込み微動だにしないせいだ。 ふと、向かい側に座っていた女生徒を見てみると、彼女もまた体から血を流しぐったりとうつ伏せで倒れてしまっている。 確認してみたが、既に息はない。 同級生は未だに待ち合わせに来ないため、その後少し冷静になった阿久津は辺りの様子を観してみることにした。 すると、己以外でただ一人――未だに息のある者がいることに気がつく。 『あ………く……っ____』 息も絶え絶えの筈なのに、彼女は半開きになった口から必死で此方の名前を呼ぼうとしていることを悟り、阿久津は醜く口元を歪めて微笑みながら見下ろした。 そして、指紋がつかないよう細心の注意を払いつつ彼女の手のひらをゆっくりと持ち上げると、その赤く染まってしまった手に凶器の包丁をそっと握らせる。 早くしないと、そのうちに硬直が始まってしまう。 何よりも、同級生であり相棒ともいえる《伊織田》がここに来てしまう。 それに、他の野次馬どもだって日常とはかけ離れたこの惨状に好奇心を刺激され騒ぎたてるに違いない。 そうだ____、 早く、早く何とかしなくては____。 ※

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