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第286話
◇ ◆ ◇
ふと、目を覚ます____。
しかし、何故か奇妙な図書館の中ではなく見覚えのない場所にいた。困惑したと同時に目を覚ました直後に、どこからか漂う白い煙が顔に思いきりかかってきたせいで、思わず眉をひそめ不快感を抱いてしまった。
きょろきょろと辺りを少し見回すと、右横に車窓があることに気付き、どういう訳か自分は乗り物に揺られている最中であることを察することができる。
車窓の外には深緑に覆われた山々に雲一つない真っ青な空が広がっている光景を目にし、半開きとなった窓から蝉の合唱が洩れていて聞き惚れてしまった。そのあまりにも美しい景色を目の当たりにしたことで清々しい気持ちになり、先程までの不快感が少しだけマシになる。
「ちょっと、ちょっと――彼処が例の嗟玖村よ。何でも、呪われた一族が支配しているとか__おお、怖い、怖い……っ……」
「ああ、村人達から御三木って言われて崇拝されてるってんじゃろ?元はあの村に住んでた近所の輩から聞いたんだけどさ――松の家系や竹の家系はともかく、梅の家系は――ちと、やばいらしいんじゃて」
「やばい?やばいって何のことよ__?」
「梅の家系を支配する、今の継臣っちゅう当主がおるじゃろ?どうにも、これぞという才が無いらしいんじゃて。そんでも、容姿はすこぶる良いから両手に花らしくて仲睦まじい婚約者はおるらしいんじゃけどね。まあ、あくまで噂じゃろうて___」
すぐ近くに座る御婦人達の会話が聞こえてくるが、女性特有の甲高い声で繰り広げられる噂話を聞くと、頭痛が酷くなってしまうため、慌てて耳を塞ぎ遮断しようと試みる。
(ああ、嫌だ___)
(唏京都でも、こうだった____)
ここに来る前まで、都会である唏京都で暮らしていた時のことを思い出してしまい、必死で激しい頭痛と目眩に耐えるしかなかった。
*
「ねえ……例のお話、聞きまして?」
「ええ、ケッカクという恐ろしい病にかかっていらっしゃるとか___ああ、悍ましい。あんな戦にも出られないような非国民と同じ息を吸わなくちゃならないなんて、冗談じゃありませんわ。近くにいて会話するだけでも悍ましい病が移るんですのよ。今まで、あの非国民と話さなくて良かったですわ」
ふと、遠くから女生徒達の冷たい視線と言葉を浴びせられていたのを思い出す。
唏京都では日々、勉学に励んでいた。最初の内は有り難いことに優等生として学生達や教師達から良い評価を貰えていた。
しかし、いつからだろうか___。
いつの間にか、自分がケッカクという病にかかっていると噂が広まっていたのだ。
確かに生まれた時から体は丈夫な方ではなく、運動の授業はかかりつけの医師に言われた通りに休まなければならなかったし、しょっちゅう咳をしていたのも事実だ。どんなに食べても体格が軍人のように立派になることはなく、むしろ痩せていて倦怠感を抱くことも多い。
だからこそ、健康な体と体力が必須な軍人になどなれないと【非国民】の烙印を押されたのだ。
だが、生まれ落ちてから此の方、一度として【ケッカク】などという、皆から恐れられている病に蝕まれていると医師から断言された事はない。
「本当に辞めてしまうのか?此処でなら有名作家になるための勉学に励めるというのに___。言いたい奴には言わせておけばいいんだ。少なくとも、俺は戦が本格的に始まるまではお前と共に勉学に励みたいと思っている」
特に女生徒からの鋭く心無い目線が重くのしかかってきたため、心労が溜まり、遂には唏京都を出て何処か別の地へ移動して幼少期からの夢だった立派な作家になることを試ざすと決意した日に親友だった男からそう言われたのを思い出す。
「戦、か___。僕は非国民の烙印を押されたんだ。君は軍人として、立派に御国の為に尽くすんだな―――篤嗣」
親友だった男へ素っ気なく言い放ち、挨拶もそこそこに逃げるように汽車に乗って《嗟玖村》へ向かわざるを得なかった。
心身共の療養先として《嗟玖村》を選んだ確固たる理由は無い。
*
『いや、待ってくれよ___』
『これは、いったい何だ!?篤嗣ってのは、誰だ___いいや、そもそも、何で……ここにいる奴らは揃いも揃って、こんな変な格好してるんだよ……まるで___』
そう言いたいのに小見山の口からは一言も発することが出来ない。正確には、小見山自らの意思で発することが出来ないといった方が正しい。
「あ……あの、嗟玖村にはあとどれくらいで着きますか?」
操り人形のように、先程から噂話に花を咲かせる御婦人達へ声をかけてしまう。
「どれくらいちゅうても、あとほんの数分じゃて。それよりも、あんた……酷く顔が真っ青じゃねぇ。今の内に御手洗い済ませておいたほうがいいんやないと?」
「ほんと、ほんと……。今のあんたの顔、まるで邪鬼さんのようやわ。気味悪いし、顔でも洗っておいたらどうかしら?」
無遠慮に笑い合う御婦人達の様を目の当たりにして、小見山はすこぶる不快な気分になり、思わず反論しそうになったものの、意思に関係なく立ち上がり、結局は彼女達の言う通りに御手洗に来てしまった。
そして、ぱしゃぱしゃと顔を洗って目線を上げた直後のことだ。
目の前にある鏡に、一見すると見慣れない男の顔が映っていることに気付くのだった。
『誰だ……っ_____』
『いったい、誰なんだよ___こいつは……っ……』
頬がやつれており、覇気のない顔立ちで精悍とは言い難い見知らぬ男が、ぎこちない笑みを浮かべつつ、所々ひび割れた鏡に映っている。
『こいつ…………もしかして___』
手に持っていた眼鏡をすぐにかけ直せばいいのに、今のこの奇妙な状況では――たったそれだけのことすら自らの意思ではできないが、もどかしくて堪らない。
仕方なくぼんやりとした視界の中、見覚えのない男の顔をまじまじと見つめている内に、あることに気付いた小見山はもやもやとした不安を抱いた。
心の片隅では【何も出来ない己】に毒付きながらも必死で今の状況を例え不確かなことでも一旦は受け入れた上で何とか理解してみようと前向きに捉えてみることにした。
そして、自らの意思ではないにせよ――ようやく身を翻して御手洗から出ようと扉に手をかけた直後のこと___。
トン、
トン、トン___。
外から扉を叩く音が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
そう言って、身を乗りだすと思いの外勢い余って出てしまったせいで、外で立っていた人物に軽くぶつかってしまう。
「おっと、これは失礼………」
「い……っ……いえ__ぼけっとしてた僕が悪いんです。お怪我はありませんか?」
ぶつかった衝撃で、手に持っていた黒縁眼鏡を落としてしまう。
目の前の人物は、手慣れた仕草でスマートにそれを拾い上げると、単に手渡してくるだけでなく、わざわざかけてくれた。
そのおかげで、男の容姿をはっきりと確認することができる。
緑がかったきりっとした切れ長の目___。
鼻筋もすらりとしていて、左の口元に黒子があるのが魅力的であり、普段から周りに色男だと持て囃されるのが容易に想像できる。
更に周りの乗客達とは比べ物にならない程の高級な着物と羽織りを身につけており、何故かは分からないが一目見てすぐにそれらが《大島紬》と呼ばれる一級品だと察することができた。
「この程度で怪我なんて負う訳がないだろう。それより、何か私の顔についているかな?」
そう言いながら、屈託なく笑みを浮かべてくる姿を目の当たりにして胸が締め付けられる思いだ。
『おい……っ____何なんだよ、この不快極まりない感覚は………っ……!!』
突如として視界に映った相手の男の顔を見るや否や、小見山は胸全体が凄まじい力で締め付けられる感覚に陥り、届きもしないのに必死で助けを求めようと試みる。
経験したことなどないが、デカい蛇に全身が締め付けられると、このような恐怖を味わうのかもしれない。
その奇妙な感覚はそれから数分間続いた。
だが、手洗場に後から入ってきた男が自らの名を名乗り、身を翻して何処かへと去って行った直後に嘘だったかのように消えてしまう。
『くそ……っ___地獄みてえな時間だったぜ……だけど、今の状況は無駄じゃなかった』
『まず、こいつ――鏡に映った男で今は俺というべきか……、こいつの名は鵜月 嘉晴(うづき よしはる)』
『そして、途中で来た男――あいつは____』
「あの人が___梅后院 継臣(ばいこういん つぐおみ)さん…………」
浮かれきった様子で《鵜月嘉晴》が呟いた。
ここで一度、《小見山 世那》としての記憶がぷつりと途切れてしまう。
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