16 / 63

第16話

 清正のマンションは1LDKで、寝室は一つしかない。  光が泊まる時に使うのはリビングのソファだ。三日間程度ならなんでもないが、あまり長くなるとやはり疲れる。そろそろ自分の家に戻ろうと思った。  洗面所で三人並んで歯を磨きながら、もごもごとそんなことを呟いた。  すると、冗談交じりに清正が言う。 「何されてもいいなら、今夜から俺のベッドに来いよ」 「なんらそれ」  ペッと泡を吐き出し口の中を漱いで、知らない顔でそろりと聞いた。 「清正、男ともしたことあるの?」  同じようにペッと口を漱いだ清正に「あるわけないだろ」と答えられ、「そうだよね」と頷く。どういうわけだか胸に複雑な痛みが走った。  タオルで口元を拭って、汀のうがいを手伝う。踏み台の上に乗せた汀を両手で支えていると、ゴムで括った光の髪を清正が引っ張った。  うがいの水を含んだまま、器用に何か言う。 「るっと、しらいと思ってる男はいるんらけろな」 「は?」  思わず振り返りかけ、同時に汀が水を零しそうになるので、そちらに気を取られる。 「ひかゆちゃん、いっちょにねんねすゆ?」 「三人じゃ、さすがに無理だよ」 「ひよいの」  広いの。だから大丈夫だと、汀は大きく両手を広げてみせた。  寝室のベッドは確かに広い。けれど、それはおそらく、かつて夫婦のためのものだったのだ。そうと思うと、あまり近付く気になれなかった。 「少し早く出て、上沢の家に汀を送ってくる。おふくろが連れてこいってうるさくて」 「俺が送ろうか?」 「朝はいい。帰りだけ頼めるか。少し遅くなるかもしれないから」 「うん。わかった」  ふだん、汀は夕方まで駅前の保育所にいる。  出勤しながら汀を保育所に預け、帰宅途中に回収する。それが清正の生活パターンだ。  マンションから保育所のあるターミナル駅までは五分、清正の勤務先はそこから私鉄で一駅で、約四分の距離だ。汀と過ごす時間をできるだけ多く取る。それを最優先に、マンションと保育所を選んだと言っていた。  保育所のある駅からは、光のマンションや薔薇企画の本社も近い。交通の便もいいし、クルマでも移動できる。  今日に限らず、遅くなる時はいつでも迎えに行くと伝えた。  一方、清正の実家がある上沢までは、クルマでも電車でも三十分ほどかかる。清正と汀は、支度を調えると早々に家を出ていった。  一人になったリビングで、比較的軽い依頼仕事を一つ片付けた。自宅に残してきたデスクトップが使いたかったが、ノートパソコンでもできなくはない。小さな画面に神経を集中させ、プレゼン資料を仕上げた。  次の依頼に手を付けようとして、必要な画材を置いてきたことに気付いた。納期はまだ先なので、家に戻ってから仕上げることにして作業を終える。  時刻は昼を回ったところだ。  リビングと清正たちの寝室をざっと掃除すると、もうすることがなくなってしまい、夕方迎えに行けばいいと言われていたが、迷った末にクルマの鍵を手に取った。  さすがに少し早すぎる。それは承知だ。  それでも、かつて通いなれた家の門に立つと、旧式のチャイムを押していた。  茶色い枕木と砂利のアプローチが門の奥に続いている。その先にある玄関が開き、懐かしい人が顔を覗かせた。清正の母、聡子だ。  光の顔を見て、なぜか聡子は戸惑った様子を見せた。不思議に思って光のほうから声をかけてみる。 「あの……、ご無沙汰してます」 「あ……」  聡子の顔がほころぶ。 「やだ。光くんだったのね」  笑顔になった聡子が、門を開けるためにアプローチを進んできた。 「ごめんなさい。なんだか、一瞬、朱里(あかり)さんが来たのかと思って……。彼女がここに来るはずないから、何かあったのかしらって心配になっちゃった」  バカねえと笑って聡子は門に手をかけた。さほど高さのない鋳物の門が内側から開く。 「あなたたち、ちょっと似てるのよね」   朱里というのは汀を産んだ人で、清正の別れた妻だ。光は会ったことがない。 「久しぶりね。清正が結婚して以来かしら」 「いえ……。あの、一昨年……」 「あ、そうだったわね」  光はそっと目を伏せた。  清正が家を出て以来、すっかり足が遠のいたのは確かだった。だが、最後にここを訪れたのは、およそ二年前、清正の父が亡くなった時だ。 「その節は、どうもありがとう」 「いえ……」 「ひかゆちゃん!」  聡子と言葉を交わしていると、玄関ドアを押し開けて汀が外に出てきた。転がるような勢いで駆けてきて、光にしがみつく。小さな塊を両手で抱き上げた。 「あ、えっと。清正に頼まれて、汀を迎えに来たんですけど……」 「ええ。聞いてるわ」 「……早すぎますよね」  気まずく言うと、聡子は嬉しそうに頷いた。 「忙しくなかったら、上がってゆっくりしていって」 「あ、じゃあ、お線香だけでも……」  もぞもぞ動く汀を地面に下ろすと、そのままぐいぐいと手を引かれた。 「おしゅなば、あゆの」 「砂場?」 「こっち」  にこにこ笑いながら、聡子が言う。 「光くんに見せたいの? 光くん、よかったら、先に見てあげてくれる?」  光は頷き、汀に導かれるまま七原家の庭に回った。懐かしい香りに思わず顔がほころぶ。

ともだちにシェアしよう!