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第16話
清正のマンションは1LDKで、寝室は一つしかない。
光が泊まる時に使うのはリビングのソファだ。三日間程度ならなんでもないが、あまり長くなるとやはり疲れる。そろそろ自分の家に戻ろうと思った。
洗面所で三人並んで歯を磨きながら、もごもごとそんなことを呟いた。
すると、冗談交じりに清正が言う。
「何されてもいいなら、今夜から俺のベッドに来いよ」
「なんらそれ」
ペッと泡を吐き出し口の中を漱いで、知らない顔でそろりと聞いた。
「清正、男ともしたことあるの?」
同じようにペッと口を漱いだ清正に「あるわけないだろ」と答えられ、「そうだよね」と頷く。どういうわけだか胸に複雑な痛みが走った。
タオルで口元を拭って、汀のうがいを手伝う。踏み台の上に乗せた汀を両手で支えていると、ゴムで括った光の髪を清正が引っ張った。
うがいの水を含んだまま、器用に何か言う。
「るっと、しらいと思ってる男はいるんらけろな」
「は?」
思わず振り返りかけ、同時に汀が水を零しそうになるので、そちらに気を取られる。
「ひかゆちゃん、いっちょにねんねすゆ?」
「三人じゃ、さすがに無理だよ」
「ひよいの」
広いの。だから大丈夫だと、汀は大きく両手を広げてみせた。
寝室のベッドは確かに広い。けれど、それはおそらく、かつて夫婦のためのものだったのだ。そうと思うと、あまり近付く気になれなかった。
「少し早く出て、上沢の家に汀を送ってくる。おふくろが連れてこいってうるさくて」
「俺が送ろうか?」
「朝はいい。帰りだけ頼めるか。少し遅くなるかもしれないから」
「うん。わかった」
ふだん、汀は夕方まで駅前の保育所にいる。
出勤しながら汀を保育所に預け、帰宅途中に回収する。それが清正の生活パターンだ。
マンションから保育所のあるターミナル駅までは五分、清正の勤務先はそこから私鉄で一駅で、約四分の距離だ。汀と過ごす時間をできるだけ多く取る。それを最優先に、マンションと保育所を選んだと言っていた。
保育所のある駅からは、光のマンションや薔薇企画の本社も近い。交通の便もいいし、クルマでも移動できる。
今日に限らず、遅くなる時はいつでも迎えに行くと伝えた。
一方、清正の実家がある上沢までは、クルマでも電車でも三十分ほどかかる。清正と汀は、支度を調えると早々に家を出ていった。
一人になったリビングで、比較的軽い依頼仕事を一つ片付けた。自宅に残してきたデスクトップが使いたかったが、ノートパソコンでもできなくはない。小さな画面に神経を集中させ、プレゼン資料を仕上げた。
次の依頼に手を付けようとして、必要な画材を置いてきたことに気付いた。納期はまだ先なので、家に戻ってから仕上げることにして作業を終える。
時刻は昼を回ったところだ。
リビングと清正たちの寝室をざっと掃除すると、もうすることがなくなってしまい、夕方迎えに行けばいいと言われていたが、迷った末にクルマの鍵を手に取った。
さすがに少し早すぎる。それは承知だ。
それでも、かつて通いなれた家の門に立つと、旧式のチャイムを押していた。
茶色い枕木と砂利のアプローチが門の奥に続いている。その先にある玄関が開き、懐かしい人が顔を覗かせた。清正の母、聡子だ。
光の顔を見て、なぜか聡子は戸惑った様子を見せた。不思議に思って光のほうから声をかけてみる。
「あの……、ご無沙汰してます」
「あ……」
聡子の顔がほころぶ。
「やだ。光くんだったのね」
笑顔になった聡子が、門を開けるためにアプローチを進んできた。
「ごめんなさい。なんだか、一瞬、朱里 さんが来たのかと思って……。彼女がここに来るはずないから、何かあったのかしらって心配になっちゃった」
バカねえと笑って聡子は門に手をかけた。さほど高さのない鋳物の門が内側から開く。
「あなたたち、ちょっと似てるのよね」
朱里というのは汀を産んだ人で、清正の別れた妻だ。光は会ったことがない。
「久しぶりね。清正が結婚して以来かしら」
「いえ……。あの、一昨年……」
「あ、そうだったわね」
光はそっと目を伏せた。
清正が家を出て以来、すっかり足が遠のいたのは確かだった。だが、最後にここを訪れたのは、およそ二年前、清正の父が亡くなった時だ。
「その節は、どうもありがとう」
「いえ……」
「ひかゆちゃん!」
聡子と言葉を交わしていると、玄関ドアを押し開けて汀が外に出てきた。転がるような勢いで駆けてきて、光にしがみつく。小さな塊を両手で抱き上げた。
「あ、えっと。清正に頼まれて、汀を迎えに来たんですけど……」
「ええ。聞いてるわ」
「……早すぎますよね」
気まずく言うと、聡子は嬉しそうに頷いた。
「忙しくなかったら、上がってゆっくりしていって」
「あ、じゃあ、お線香だけでも……」
もぞもぞ動く汀を地面に下ろすと、そのままぐいぐいと手を引かれた。
「おしゅなば、あゆの」
「砂場?」
「こっち」
にこにこ笑いながら、聡子が言う。
「光くんに見せたいの? 光くん、よかったら、先に見てあげてくれる?」
光は頷き、汀に導かれるまま七原家の庭に回った。懐かしい香りに思わず顔がほころぶ。
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