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第17話

 かつて、光は毎週のようにこの庭に通った。  清正の実家は、十五年ほど前に建てられた4LDKで、一階に広めのLDKと床の間付きの和室があり、二階には六畳の洋室が二部屋と書斎の付きの主寝室があった。面積にして約百平米、当時の都市部では比較的標準的な間取りである。  清正が結婚した時、二世帯住宅へのリフォームが検討された。だが、結局、清正は駅の近くに2LDKの賃貸マンションを借りて、この家を出たのだった。  朱里とも別れてからは、聡子の強い勧めを断って、職場に近い今のマンションに引っ越した。そこで、汀を育てている。たった一人で。  清正がここを出てからは、光もここへ来ることがなくなった。  汀に手を引かれて庭に行き、昔のままだと思った。  決して広くない街中の家。小さな空間を最大限に生かして整えられた庭を、懐かしく見渡す。二年前に来た時は葬儀の合間に寄っただけで、庭まで足を運ぶ時間はなかった。  この庭を訪れるのは約四年ぶりになる。  リビングの南側に渡したパーゴラと敷地の境界を囲むラティス。アーチとオベリスク。立体仕立てにした薔薇を中心に、季節ごとの花を咲かせる花壇がいくつか配置されている。  時間と手間を十分にかけた庭には、季節ごとの花が咲き、何種類もの薔薇が花を付けた。  どの季節もそれぞれに美しかったが、薔薇の開花がピークを迎える頃には、むせ返るほどの花に圧倒される気がした。ラティスの壁を這い上がり、パーゴラの天井を埋め尽くすように咲く花。  中でも薄紅色のアンジェラが咲き零れる五月の庭は圧巻だった。  アンジェラが咲くと、光は薔薇の下の大きな水色のベンチに座って、いつまででも花を見上げていられた。  大きなベンチは、ずっと光の大切な場所だった。  本を読み、スケッチを描き、うたた寝をして、そして……。  汀に手を引かれて、懐かしいベンチに近付く。それは今も水色のペンキで塗られていた。座面と背もたれに置かれたクッションの色も青い。  花の中で空とつながるような明るいブルーは、ベンチに塗るには珍しい色だ。清正の父が、たまたま余っていたペンキの中から、綺麗な色のものを選んで塗ったと言っていた。  白やこげ茶や濃いグリーンがなかったことを、光は神様の祝福だと思った。計算して塗られたのではない明るい空色は、奇跡のような効果を上げて庭を何倍も開放的なものにしていたからだ。  空につながる青いベンチ。横になれるほど大きなそれを、光は愛した。 「ひかゆちゃん、みて」  ベンチから一番近い花壇の一部が小さな砂場に改造されていた。そこを指さして、汀は誇らしげに光の顔を見上げている。  葉を落とした薔薇の枝を透かして、冬の低い日差しが斜めに差し込む。三月並みの気温だと天気予報で言っていた通り、風もなく穏やかな暖かい午後だった。 「どうじょ」  プラスチックのスコップを渡されて、砂場の脇にしゃがみこんだ。  汀一人が入ればいっぱいの小さな砂場は、それでもたっぷりの砂が深い場所まで満たされているらしく、好きなだけ掘っても底が見えることはなかった。  丸や四角や三角の型に砂を詰め、縁の煉瓦の上にその型を抜いて並べてゆく。汀の表情は真剣だ。 「サトちゃんと、いい子にしてたか?」 「うん」  せっせと手を動かしながら、汀は短く返事をする。  光たちには「聡子さん」と呼ばれていた清正の母は、孫たちには「サトちゃん」と呼ばれている。  若々しく美しかった彼女を「おばさん」と呼べなかった頃を思い出して、笑みが零れた。清正の顔立ちがいいのは聡子譲りだ。体格は亡くなった父親に似たのだろう。  集中して砂を掘っている汀を眺める。明るい髪色も大きな茶色い目も、あまり清正に似ていない。ちょこんと摘まんだような鼻の先に砂の粒が付いていた。  白くて華奢な姿は仔猫か天使のように可愛くて、清正が溺愛するのも頷ける。  表面の乾いた砂より、深い場所にある湿った砂のほうが綺麗に型を抜くことができるのを、汀は知っているらしかった。納得のいく砂に辿り着くまで、無心に深く砂を掘っている。その妥協のないこだわりを、光は感動を持って見ていた。  花びら型やクマの顔が浮き出る複雑な型を光が抜いてみせると、汀の目が尊敬の色に輝いた。砂を詰める量や詰め加減を丁寧に指導すると、汀の腕はみるみる上がってゆく。  夢中になって二人で遊んでいると、聡子が少し呆れたように声をかけた。 「そろそろ家に入ったらどう? 寒いでしょう?」  タイミングよく汀がくしゅんとくしゃみをする。 「中、入るか?」 「もっとあしょぶ!」  コツを掴みかけている汀は作業を続けたがった。 「だったら、上着着てきな」  光の言葉に、「あい」と嬉しそうに頷いて、聡子に駆け寄り大きな声でお願いする。 「サトちゃん、うわぎ、くだしゃい」 「汀の上着はあるけど、光ちゃんは寒くないかしら?」  聡子に言われて、汀が振り向く。  日中の温かさとクルマ移動であることに油断して、光はシャツの上にカーディガン一枚しか羽織っていなかった。 「ひかゆちゃん、しゃむい?」 「んー、今のとこ、まだ平気……」  言ったそばから、ひゅうっと冷たい風が吹き、光は思わずブルッと背中を震わせた。  それをじっと見ていた汀が、ととと、と戻ってきたかと思うと、光の手を引っぱった。砂場の脇から立たせて、ものしり顔でこう言う。 「ひかゆちゃん。おうち、おいで?」 「もう終わりで、いいのか」 「ん。おちまい」  こくりと頷いて、それから光に「いいこね」と、まるで大人が宥める時のように、真顔で言った。笑いが込み上げる。 「よし。じゃあ、もうおうちに入ろうな」  外の冷たい水で軽く手を洗い、家に入ってから洗面所でもう一度石鹸でよく洗い流した。 「お湯はあったかいなー」 「あっちゃかいねー」  タオルで手を拭いてやりながら、汀に告げる。 「今日、パパ来れないんだけど、俺と一緒におうちに帰れるか?」 「みぎわ、ひかゆちゃんとかえゆ」  うん。いい子だ。軽く頭を撫でると、汀は嬉しそうに笑ってリビングに走っていった。

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