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第18話
リビングでは聡子が汀に白湯 を飲ませていた。軽く会釈して部屋を横切り、奥の和室に入る。仏壇に手を合わせ、線香の煙がまっすぐ上がってゆくのを少しの間見ていた。
「それじゃあ、そろそろ帰ります」
光が挨拶すると、聡子が引き留めた。
「お夕飯用意したの。食べてって」
「え、でも……」
「汀も喜ぶし。ね」
聡子がにこにこ勧め、汀も期待を込めて見上げる。
「清正の分はタッパーに入れたから、帰りに持っていってくれればいいし」
本気で勧めてくれているのがわかり、光はありがたく甘えることにした。
汀を預かることは聡子にとって嬉しいことなのだろう。清正にも姉がいるが、結婚した相手が転勤族で今は四国か九州にいると聞く。夫を亡くしてから聡子はこの家に一人で住んでいる。汀のいる賑やかな時間は、きっと大切なものなのだと思った。
食事をしながら、聡子が聞いた。
「光くん、自分のおうちにも寄ってきたの?」
「あ、いえ。たぶん留守だし」
両親は数年前にリタイヤし、父の故郷である兵庫に移り住んでいる。今は好きな仕事だけ請け負って、悠々自適の暮らしを楽しんでいた。光が育った家は姉一家の住まいになり、何か用があれば寄るけれど、ふだんはほとんど行くこともなくなった。
聡子に聞かれるまま、自分の近況を話した。プロダクト・デザインの仕事をしていると言い、仕事内容を説明すると、聡子は感心したように何度も頷いていた。
「光くんは、昔っから絵を描いたり何か作ったりするのが好きだったものね。好きなことを仕事にできるのは素晴らしいことね」
それから、かすかに眉を寄せて、「その点、清正は心配」と口にした。
「あの子は、ちゃんと自分のやりたいことをやれてるのかしら……」
汀の手がかかるうちは仕方がないのでは、と言うと、聡子は軽く首を振る。
「もっと前から、清正はどこかで何かを諦めてる気がして」
「でも、清正は優秀ですよ。なんでも人より上手くできるし、仕事だって、汀が大きくなれば元の部署に戻るだろうし……」
「ええ。でも、なんだかね……」
どこが、と上手く言えないけれど、自分の本当の人生を生きていないような気がして心配なのだと言う。
「急にこんな話されても困るわよね。でも、うちのお父さんにもそういうところがあったから」
「おじさんが、ですか?」
公立病院の勤務医だった清正の父を思い浮かべた。いつも朗らかで、仕事に誇りを持っていた印象しかない。控えめにそう言うと、「あの人には私が活入れて、ちゃんと好きなことをして生きてもらいましたから」と聡子が胸を張る。
意味を掴みかねていると、聡子は思いがけない話をし始めた。聡子と結婚した時、清正の父親は銀行員だったというのだ。
「銀行員……」
いかにも医者という感じの、おおらかな笑顔からは想像がつかない。
「本当はずっとお医者さんになりたかったのに、家の事情でなれなかったのよ。清正が生まれたばかりの頃、酔った勢いで、一度だけそのことを口にしたの」
だったら今からなればいいと、聡子はその時言ったそうだ。もし本当にやりたいことがあるなら、自分たちを養うために諦めないでほしいと。
「彼、兄弟のために、早く社会に出なくちゃいけなかったらしいの。たった二年か三年でも。だから文系に進んで銀行に入ったんですって。でも、私と結婚した頃には下の兄弟たちも社会に出ていて、もう一人前になってたし、自分たちのことだけ考えればよかったから。だから、六年くらい私がなんとかするわよって言って、勉強し直してもらったの」
あっさりと聡子は言ったが、生まれたばかりの清正と歩き始めて間もないその姉とを抱え、六年間夫の収入に頼らずに暮らすというのは並大抵の覚悟でできることではない気がした。
普通なら、そんな生活を選ばない。
「大変だったんじゃ……」
「大変だったわ。彼も反対した」
でもね、と聡子は微笑む。
「何かを諦めた人のそばで、その人の本当の人生がほかにあったと思いながら、ついていくほうが怖かったの。あの人は不幸そうには見えなかったわ。でも、どこかでいつも覇気がなかった。そんな人と、ずっと一緒にいるほうが、私は嫌だったのよね」
受験の準備期間も含めると七年間、決して短くない時間を、苦労して生きた。その期間も含めて、彼の本当の人生に寄り添えたことを後悔していないと聡子は笑う。
それから、また顔を曇らせていった。
「清正、銀行に行ってた頃のあの人と、どこか似てるの。納得するんじゃなくて、諦めたような気持で、これでいいって思って生きてるように見えるの」
そんなことはないと、光は言いたかった。けれど、聡子の言葉には重みがあった。ずっと息子の生き様を見てきて、その姿が夫の昔の姿に重なることに気付いて、心配しているのだ。
「私の思い過ごしならいいんだけど」
子ども用の椅子の中で、汀がころんと丸くなる。
よほど遊び疲れたのか、小さな手に箸を握ったまますうすうと寝息を立て始めた。
「すっかり引き留めちゃった。久しぶりに会えたのが嬉しくて、ついおしゃべりしずぎたわね。汀ともしばらくお別れだと思うと……」
「しばらくお別れ?」
「あ、そうなのよ。ちょっと母が体調を崩して、明日から山形に行くことになったの。それで、今日は清正に無理を言って汀を連れてきてもらったの」
「大丈夫なんですか?」
「風邪をこじらせただけみたい。でも、年が年だから、一度様子を見に行ってみようと思って」
今年、九十になるのだと聡子が言う。
「向こうに行ったら、そのままいるようになるかもしれないし。こっちに来てもらうより、私が行っちゃったほうが母にも負担が少ないでしょ」
「え。でも、そしたらこの家は?」
「まだ先だけど、ゆくゆくは売ることになるかしらね。清正が住むなら残しておきたいけど……」
期待はしていないと聡子は笑う。
「汀の世話は私がするから、ここに住めばって言った時も、聞かなかったしね」
もっとも、と聡子が続けた。
「ここで私と暮らしちゃったら、きっと再婚しにくくなるからだわ。あの子、昔からずいぶん女の子に人気があったけど、コブ付きババ付きじゃ、さすがに相手を探すの、大変だものね」
やっぱり、一人にしておくほうがいいわねと言って笑った。
(再婚……)
いつか、清正は再婚するのだろうか。
しないとは言えない。まだ二十七だ。汀にとっても、母親はいたほうがいい。
ぼんやりとそんなことを考えていると、汀を抱き上げながら聡子が続けていた。
「とりあえず、今回は一週間か二週間、向こうにいることになると思うの。お庭のことが、ちょっと心配だけど」
「あ……」
少し考えてから、時間がある時に自分が庭の世話をしてもいいかと聞いた。
「でも、忙しいでしょ?」
「今、時間が自由だし。たまに水をやるくらいですけど……」
「もし、本当にお願いできるなら、嬉しいわ。それだけが、どうしても気になってたから」
「なるべく毎日、様子を見に来ます」
光の言葉に「できる範囲でいいのよ」と聡子は言った。
「ありがとう」
清正の分の夕食を持ち、小さなコートで包んだ汀を抱き上げた。クルマまで送ってきた聡子が、汀と光を見比べてしみじみと言う。
「こうやって見ると、汀って清正より光くんに似てる気がするわね。全体に華奢で色が白いとことか、髪の色や目の色が明るいところとか」
光と汀が親子だと言っても、きっと誰も驚かない。聡子は真顔でそんなことを言った。
本当は、光に似ているのではなく、汀を産んだ人に似ているのだろう。そう思ったけれど、言葉にはしなかった。
後部座席に取り付けたチャイルドシートに汀を寝かせ、聡子が差し出した毛布をそっと掛ける。天使のような寝顔を少しの間二人で見下ろし、挨拶の言葉を交わした。
すっかり暗くなった街を清正のマンションに向けて走る。
五月の薔薇と青いベンチ。清正の家の庭を思い浮かべ、あの家が知らない誰かのものになってしまったら、やはり自分は悲しいのだろうなと思った。
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