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第21話

 久しぶりに薔薇企画から仕事の依頼がきた。朝、清正や汀と一緒に家を出て、本社に向かう。  打ち合わせ用のブースで待っていると、サブチーフの井出(いで)がひょいと顔を出した。 「あ。どうもー」  井出は三十五歳の中堅デザイナーだ。中肉中背、特徴のない風貌のわりにやたらと軽い性格をした独身男である。  作るものも軽い。細部にまで独特のポップさが貫かれていて、光はその軽さを気に入っていた。井出のデザインにダメを出したことはない。そのせいか、井出は光に親切だった。 「悪いねー。淳子さん、例のコンペで頭がいっぱいみたいでー。しばらく僕が担当しまーす」 「内容わかれば、誰でもいいです」  松井が担当していた時も、依頼内容によってはほとんどをアシスタントに任せていた。今さら誰が打ち合わせに来ても大した違いはない。  秋口からのファブリックや食器類、ハロウィン、クリスマスと続くイベント用の雑貨など、今後の商品の概要を一通り聞く。その中で、光にデザインを依頼したいものを井出がピックアップした。社内で企画するものとは別のラインになるので、比較的自由にやって構わないということだった。  短いやり取りで、おおよそのスケジュールを決めた。 「此花くんが相手だと、ほんとにやりやすいよねぇ」  最近、急に発注担当を任されて、とても苦労しているのだと井出は愚痴を零し始めた。腹にものを溜めないのも井出の特徴だ。毒を含む前に吐き出される愚痴も、どこか軽さがあった。聞いていても苦にならないのだ。言葉に棘があると言われる光からすると、驚異的な能力である。  ひとしきり言いたいことを言うと、今度は噂話を始める。興味はなかったが、席を立つタイミングを掴み損ね、半分、上の空で聞いていた。 「淳子さんさー、忙しいのはコンペ作品のせいだけじゃないんだよねー」  頭では、打ち合わせたばかりのデザインについて考えながら、適当に頷く。光がろくに聞いていなくても、井出は全く気にしない。ある意味気が楽だった。 「あの人さ、ずっと社長を狙ってたんだけどさ、最近やっと乗り換える相手を見つけたらしいんだよね」 「社長って……、あの社長?」  視線を上げて聞くと、「もちろんそうだよ」と井出が頷く。 「淳子さんが入ってきた時さ、えらい美人が来たってんで、みんなけっこう盛り上がったの。でも、もう最初っから、雑魚は眼中にありませんて感じで、社長一直線」  元ミスなんとかで、仕事もできたし、自分に自信があったのだろうと井出は続ける。  井出は松井の一つ先輩で、二人が入社したのは十年以上前だ。会社は今ほど大きくなかった。それでも、当時から堂上は成功した実業家の一人として注目されていた。まだ若く、見た目はいいし、物腰も品がある。金も地位もこれからどんどん手に入る。決まった恋人がいないことも、人気に拍車をかけた。  近付く女性が後を絶たなかったという。その中で、松井は一定の地位を掴んでいた。  最初は仕事で存在感をアピールした。堂上の視界に入ることに成功すると、女性の部分を前面に押し出すようになり、あっという間にライバルたちを蹴散らしたそうだ。当時から気の強さとプライドの高さはすごかったらしい。 「仕事の上でもプライベートでも親密な感じで、似合いの美男美女っていうんで、ゴールは目前かって噂もあったんだよね」  ところが、堂上のほうには全くその気がなかったのだと井出は笑う。 「何年経っても、それ以上の進展はなかったんだよね」  結局松井も、他の女性たちと同じ、本人が空回りしているだけだったのだ。 「そこに、此花くんが入社してきて」 「え、俺?」  急に話に引き戻される。 「うん、仕事上の評価で抜かれるわ、社長の寵愛は持ってかれるわで、彼女、相当イライラしてたよね。此花くんのことも、最初はすごく可愛がってたのに、手のひらを返したみたいに八つ当たりするようになったでしょ?」 「あー……」 「此花くんてさ、確かに変わってるし、言うことはキツイから、たまにみんなとぶつかるけど、チーフが言うほどみんなはきみのこと悪く思ってないからね?」  あんまり気にしないほうがいいよと慰められて、「へ?」と目を瞬く。  別に何も気にしたことはなかったが、井出の気持ちはありがたい気がしたので、一応礼を言ってみた。 「ありがとございます」 「あ、もともと全然、気にしてなかった?」 「はい」と頷くと、井出が「あはは」と笑った。 「社長に決まった相手でもいれば諦めも着いたんだろうけどね、社長ってああ見えて仕事が恋人だからね。淳子さんは淳子さんで、プライドめっちゃ高いから、今さら妥協してほかの男に行けないし。そうこうしてるうちに三十路も半ばになっちゃってさ、彼氏いない歴何年ですかって感じになって、だんだんおっかない人に……。あ……」  これは失言、と笑って、井出が周囲を見回す。 「こういうのも、今はセクハラになるんだってね」  低いパーテーションで区切られた打ち合わせブースは、部屋の隅にある。近くに人はいなかった。 「誰も聞いてないし、大丈夫じゃないっすか」  そろそろ帰って仕事に取り掛かりたいと思い、資料をバッグに仕舞い始めた。井出は、慌てて「話の落ちだけ聞いてってよ」と引きとめた。 「それでさ、そんな淳子さんに、最近ついに社長に代わる本命が現れたらしいんだよ」  じゃじゃーんと手を広げる井出に、「へえ。よかったですね」と返して、立ち上がる。  一緒に立ち上がった井出が、ブースを出てエレベーターまでついてくる。 「ほんとよかったんだよぉ。あの人の機嫌がいいと、僕たちもすごく楽になるから」  光がいなくなってからというもの、松井の不機嫌の矛先がどこに向くかと誰もがひやひやしていた。「あの人の攻撃を一手に引き受けてたんだから、此花くんは強いよねー」としみじみと言う。 「この前もほっぺたひっぱたかれてビクともしてなかったし。顔は女の子みたいだけど、中身は(おとこ)だなあって、俺、感心したよ。俺なんて、高い位置から見下ろされただけでタマがこう、ヒュッて縮むもん」  松井はヒールを履くと百七十センチ代の後半になる。平均身長の光や井出は、常に見下ろされる形で話をすることになるのだった。 「あんなに踵の高い靴を履かなくても」  井出は情けない表情でぶつぶつ呟く。 「でね、その本命彼氏、かなり背が高いんだよ。この前、帰りにちょっと見かけたけど、すごいイケメンでさ。まあ、あの堂上社長から乗り換えるくらいだから、並みの男であるわけないんだけどね」  サラリーマン風で、腰の位置も異様に高かったと羨ましそうに続ける。松井が見上げていたくらいなので、堂上と同じくらいあるだろうと言った。 「百八十五センチ以上ってこと?」 「あるね。でも、年下かな」  けっこう若そうだったから、と言いながら、井出はガラス張りのエレベーターホールで足を止めた。  ホールからは隣接する本店の店舗が見下ろせる。  仕事の合間に、ここで店の様子を見るのは、いい気晴らしになる。ミラーガラスを使用しているので、店舗側からこちらが見える心配はなかった。  二階のティールームを見ていた井出が「あ、あれ」と言って、窓際の席を指差した。 「噂をすれば、ほら」  ランチタイム前の、少し余裕のある店内を、松井が歩いている。その後ろに背の高い男が立っていた。 「同じ男としても惚れ惚れするような、かなりのイケメンだよね」  手足の長い、モデルのような体型の男だ。その男が、ふいに振り向いてこちらを見上げた。  その瞬間、光は息をのんだ。  打ち合わせ用の資料を入れたポートフォリオが手から滑り落ちる。たくさんの紙が床に散らばった。 「わ。何してんの?」  井出が慌てて拾い集める。 「もう。相変わらずだなぁ」  動かない光に紙の束を押し付け、気にする様子もなく言った。 「じゃあ、最初の納期は来週だけど、よろしくね」  ぼんやり頷くと、井出は手を振って事務所に戻っていった。  その間、光はずっとティールームを見下ろしていた。目を離すことができなかったのだ。  そこには、松井と向かい会って座る清正の姿があった。

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