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第22話

 清正に彼女ができた。  初めてそのことを知ったのは、高校一年の時だ。五月の連休が明けて何日が経った頃、教室の隅を流れる噂話で耳にした。  その日は清正がいないのを承知で上沢の家に行き、青いベンチに座ってぼんやりしていた。何も考えないように慎重に心を殺して、アンジェラの花びらが散るのをいつまでも見ていた。  花の色は薄紅よりも銀色に見えて、世界には案外色が少ないのだと思って寂しくなった。  光に気が付いた聡子がテラス窓を開けて、黄色い琵琶の実をいくつかくれた。  その時から、光はなんとなく琵琶が好きではなくなった。聡子のせいではないし、琵琶に罪はない。甘く黄色い果実を食べなくなった自分を、今もどこかで、何に対してかもわからないまま、申し訳なく思っている。  薔薇企画を出た光は、コインパーキングに停めたクルマまで行くと、運転席でしばらくぼんやりしていた。  それからふと、時間はまだかなり早いけれど汀を迎えに行こうと思った。汀の保育所は薔薇企画の本社から近い。  清正の職場からも近い……。ランチタイムに足を延ばせるくらいに、近い。  上沢に一度帰ってまた迎えに来るよりも、今日はこのまま汀と帰ってしまおうと思った。  駅に隣接するビルの地下駐車場にクルマを滑り込ませる。  地上に出て、広い通りの向こう側にあるビルを眺めながら、ペデストリアンデッキを渡った。  まわりを囲むのは幹線道路や商業施設ばかりで、近くに公園や緑地などはない。街路樹の銀杏だけが季節を知る手助けをしていた。  排気ガスの混じる冷たい空気を吸い込みながら、高い場所にある開かない窓を見上げる。  汀の保育所があるのは四階で、高所にある部屋の窓は安全のために全て嵌め殺しだった。  エレベーターを降りて保育所に続く強化ガラスの扉を開けると、正面の椅子に腰かけていた女性職員が、「しー」と唇の前に指を一本立てた。昼寝の時間らしい。  透明なポリカーボネイトで仕切られた奥のスペースでは、カーテン越しの鈍い光の下で、小さな山がいくつも連なって健やかな寝息を立てている。薄明りに包まれた室内は、水の底のように青く静かだった。  マスクと眼鏡を外して会釈をすると、職員は最初、怪訝な表情を見せた。光の顔に見覚えがないからだろう。  だが、すぐに彼女は合点したように一つ頷いて、口元をほころばせた。席を立ち、仕切りの向こうの毛布の山の一つに向かう。  そっと近付いて、山の一つに触れる。揺り起こされた汀が、半分眠りかけた目をこすってこちらを見た。光の顔を確認すると、嬉しそうに両手を差し出す。職員に何か聞かれて、大きく頷いている。  ほかの子どもを起こさないように注意しながら、職員が汀を運んできた。静寂が支配する室内で、無言のまま頭を下げて小さな塊を受け取る。半分眠った汀は、少し重かった。  ガラスの扉を出て、エレベーターを待ちながらふわふわした頭に囁いた。 「眠いか」  返事をする前に汀はことんと光の肩に頭を預け、寝息を立て始める。額にかかる髪が湿っていて、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。汀の匂い。  リュックごと自分のコートの中に抱いて、冷たい空気の中、広いデッキを渡る。地下のパーキングに停めたクルマに乗せ、チャイルドシートの上から毛布を掛けた。汀は一度目を開けかけたが、すぐにまた寝息を立て始めた。  三十分ほど走って上沢の家に着く。  ぐっすり眠った汀は機嫌よく目を覚ました。 「散歩にでも行くか?」  シートから降ろしながら聞くと、まだ明るい空を見て茶色の大きな目を輝かせる。日曜でもないのに、外で遊べることに驚いているらしかった。  使い込んで少し傷んだキルティングのリュックから着替えを出し、洗濯機に入れ、所定の場所に荷物を片付けてから外に出た。手を引いて歩き出そうとすると、後ろ髪でも引かれるような仕草で汀が庭に目を向ける。  このところ砂遊びにハマっている汀は、散歩に行くか砂遊びをするか迷っているようだ。  光は庭の隅の物置から汀の砂場セットを取り出して、小さなバケツと一緒に手に持った。 「この前みたいな広い砂場があるところに行こうか」 「おっきいおしゅなば?」  茶色い大きな目をいっぱいに見開いて、キラキラの笑顔で汀は頷いた。  確か近くに大きめの公園があった。記憶を頼りに、汀と手をつないで五分ほど歩く。  だが、目的地に到着すると、光と汀はそこに立ち止まってしまった。  公園にはたくさんの親子連れがいた。  広い砂場も子どもでいっぱいだ。山を作ったり型抜きをしたり、それぞれ好きなように遊んでいる。  汀の小さな手が光の手をぎゅっと握り返した。緊張が伝わる。けれど、こういう時にどうすればいいのかが、光にもわからなかった。  黙ったまま二人で立ち尽くしていると、近くに立っていた母親グループの何人か視線を向けてきた。ふだんならその視線を避けて立ち去るところだが、今、ここでそんなことをしたら、汀は公園で遊ぶことができない。  光は恐る恐るマスクを外して、誰にともなくグループ全体に会釈をした。  すると、母親の一人が子どもに声をかけ、何人かの子どもが汀を指差し駆け寄ってきた。汀の手にしたスコップ入りのバケツを見ると、もう一方の手を掴んでぐいぐい引っぱる。  光は息を止めた。汀の目が不安そうに光を見上げる。慌てて「大丈夫だ」と大きく頷いた。  安心したように笑った汀が、子どもたちに手を引かれるまま砂場に走ってゆく。ほっと安堵の吐息が漏れる。背中にたくさん汗をかいていた。  これが「公園デビュー」というやつか。こんな試練を乗り越えて、みんな子育てをしているのか。母親たちというのは、なんと勇敢なのだろう。  うまくいったのかどうかわからないが、とりあえず汀は楽しそうに遊んでいる。ハラハラと冷や汗をかきながら、それを見守った。  母親グループにチラリチラリと視線を投げかけられる度に、必死に硬い笑顔を作って会釈を返した。作り笑いなど、子どもの時から一度もしたことがないというのに。自分の取る行動にひたすら驚く。  日が傾き始め、ほかの子どもたちが帰り支度を始めると、光も汀の近くに座って声をかけた。 「そろそろ、帰るか?」  周囲を見回し、人の姿が減ってゆくのを見た汀は素直に頷いた。  まだ残っていた何人かの母親に、もう一度軽く頭を下げてその場を離れる。  子どもたちが口々に「みぎわちゃん、ばいばい」と声をかけてくる。汀も「ばいばい」と、嬉しそうに手を振っていた。 「またあそぼーね」  元気に頷いて、汀は力いっぱい小さな手を振る。  帰り道、「ひかゆちゃん、またくゆ?」と汀に聞かれ、「ああ。また来ような」と答えた。  満足そうな笑みが顔いっぱいに広がる。  ハナちゃんは砂を固めるのが上手で、カズくんはトンネルを掘るのが上手なのだと、拙い口調で汀は一生懸命説明した。 「みぎわは、ぷりんがじょーじゅなの」  プリンというのは型抜きのことだろう。  自分が指導したのだから当然だと、ひどく誇らしい気持ちになって汀の声を聞いていた。  ただ見ていただけなのに、とんでもなく疲れていた。それでも、汀の嬉しそうな顔を見れば、連れてきてよかったと思ったし、また連れてきたいと思っていた。

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