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第23話
上沢の家に戻ると五時を回っていた。いつもより早めの夕食を食べさせ風呂に入れてやると、いくらも経たないうちに汀は目を擦り始めた。
二階に連れていって清正のベッドに寝かせる。すぐに汀は寝息を立て始めた。十分に遊んで満足し、同時に少し疲れたのだろう。
無垢な寝顔を見下ろしているうちに、一人になってしまったなと思った。
午後いっぱい汀のことだけ考えて過ごした。一人になると、昼間エレベーターホールから見た光景が、心の裡によみがえった。
(なんで、淳子と……)
清正は帰ってこない。
最初に「しばらくの間帰りが遅くなる」と言われたので、清正の帰りが遅くても、あまり気にしたことはなかった。
けれど、今日はどうしてか、時計の針にばかり目が行ってしまう。
仕事でもしようと考えて、座卓の上にスケッチブックを広げた。
打ち合わせをしている間に浮かんでいた秋口の食器のアイディアを、白いページにいくつか描いてゆく。ざっくりとしたイメージから細部を調整し、後はパソコンで仕上げればよいという状態まで、自分の中で詰めていった。集中していると時間を忘れることができる。
けれど、ふと目を上げると、時計の針は十時を指していた。
清正はまだ帰っていない。
ざわざわと心が騒ぐ。それを無理に遠ざけて別の何かを考えようとする。
そろそろ堂上から言われたコンペの作品に手を付けなければいけない。
何を作るかは自由。食器でも調理器具でも収納雑貨でも、あるいは文具の類でも、詰め替え用のボトルや洗濯用のカゴでも、椅子やテーブルやチェストなどの家具類でも、なんでもいい。試作品をいくつか出すなら、家具は無理だろうとツッコむと、『その場合は臨機応変で』と堂上は言った。試作品の有無は評価に影響するが、なくても構わないらしかった。
テーマは「恋」……。
なんとなく庭に出て、青いベンチに腰を下ろす。リビングからの明かりがあるので暗くはないが、一月末の夜の空気はさすがに冷たかった。
何度も訪れた清正の家は、自分の家と同じくらい馴染みがある。姉たちの手でリフォームされた実家より、ある意味懐かしい場所かもしれない。
冬の夜にはこの場所で清正と星を見た。
光も清正もはっきりと星の形を結べるのはオリオン座くらいで、理科の教材の星座盤で想像したよりずっと大きなその星座を見つけ、『でかすぎて、かえってわかりにくいから』と言って笑ったのを覚えている。
頭上を覆うように手足を広げる長方形の星座を見ていると、家の中から声が聞こえた。
「光。ここにいたのか」
「あ、お帰り、清正。遅かったな」
「ああ、悪い。汀は?」
もう寝たと言うと、「そうだよな」と笑う。
サンダルをつっかけて光のそばまで来ると、脱いだコートを広げてふわりとその中に光を包み込んだ。
「寒いだろ?」
「平気。もう家に入るし」
ほんのわずかに漂った癖のある香りに小さく胸が痛んだ。
清正の身体を押して腕の中から逃げる。自分の中に濁った感情があるのを知って軽い嫌悪感を覚える。どうしても浮かんでくる昼間の光景を、努めて振り払う。
「……仕事?」
「ああ。元の部署に戻るかって、正式に打診があった」
研究開発の部署を離れる時、期間は三年以内と言っていたのを思い出した。
若いうちの三年ならば、遅れたキャリアを取り戻せる。それが主な理由で、条件だったように思う。それ以上長くなると戻れない。一般的な事務職で働き続けるのだと言っていた。
汀が一歳になる少し前に、清正たちは別れた。二月の初めに今の部署に異動になり、今月末で、ちょうど丸三年になる。
「戻るのか?」
「どうかな……。戻るなら、今回しかないって言われたけど」
戻らないという選択肢もあるのかと驚き、いつか聡子が言っていた言葉を思い出した。
ちゃんと自分のやりたいことをやれているのか、本当に生きたい人生を生きているのか、聡子は気にかけていた。
「汀がまだ心配?」
「そういうわけじゃない。汀もだいぶしっかりしてきたし、手もかからなくなった。自分が大事にされているとわかっていれば、今より長い時間預けられても、なんとかやっていけると思う」
細かく気にかけてやる必要はあるけれど、おおむね大丈夫だろうと続ける。
「光も、仕事が忙しかったら、そっちを優先していいんだぞ。遅くなっても、汀は俺が迎えに行くから」
「ここにいる間は、俺が行くよ」
光の仕事は時間の融通が利く。今日のように早く迎えに行って公園で遊ばせても、夜に作業をすれば済むのだ。
「ここにいる間は、じゃなくて、ずっといろよ。心配だから」
「大丈夫だよ。ちゃんとお金のことも考えるし、ごはんも食べる」
「一人にしておくのが嫌なんだよ」
「なんで?」
悪い虫が付くからと、ヘンな冗談を言う清正に腕を引かれてリビングに戻る。光の肩からゆっくりとコートを脱がせながら、清正はふうっとため息を吐いた。
「ここにいたらいたで、心配だけどな」
「何が?」
「俺の理性が」
首を傾げると、黒い瞳がかすかに揺れた。コートを脱がせた手が光のシャツの上を迷うように彷徨って、離れてゆく。
「なんでも片付けるのはいいけど、外に出る時に羽織るものくらいどこかそのへんに置いておけよ。汀の上着が押し入れにあるんだから、一緒に仕舞っておけばいいだろ」
「だって、平気だし」
昔から頓着しないで薄着で過ごしているせいか、光は案外丈夫なのだ。それでも、不用意が過ぎれば風邪をひく。そのせいで、清正は過保護なくらい光を気遣うことがあった。
「汀が大丈夫でも、前の職場には戻らないのか?」
「大丈夫でも、なるべく一緒にいたいんだよな……。可愛いから」
汀の存在が負担になって仕事ができないのではなく、単に清正が少しでも汀といたいだけなのだと言った。
「開発の仕事は面白いだろうし嫌いじゃないと思う。でも、例えばおまえみたいに、本当に好きなことを仕事にしたってほど、強い想いでもないし、仕事が生きがいってわけでもないんだよな」
「でも、何か作るのは面白いだろ?」
「そうだな。……それに、たぶん、汀のためにも、俺が仕事を楽しんでるほうがいいんだろうけどな……」
事務仕事を下に見るという意味ではないが、学んだことを生かせるのは、やはり元の部署だろう。難関を突破して採用されたのだ。企業の側でも期待している。
「まあ、もう少し考えるよ」
そう言って、光の髪に指を絡める。見下ろす目の中に迷う色が浮かんで、不思議に思って見ていた。
「光……」
ふいに顎を持ち上げられて心臓が止まる。清正の顔が近付く前に、慌てて胸を押し返していた。
ドキドキと鳴り続ける胸を押えている間に、清正は何でもない様子でキッチンに行ってしまった。
背中を向けて、冷蔵庫から取り出した皿をレンジに入れて温めて始める。
今、何が起こりかけていたのか、光にはよくわからなかった。
けれど、いつもと変わらない清正を見ているうちに、なんでもなかったのだ、ただの気のせいだと冷静になった。
起こるはずのないことに驚くのはおかしい。
椅子の背に掛けたコートを、なんとなく手に取って畳む。
そうしながら、他愛のない話を探して会話を続けた。汀を公園に連れていったこと、まわりの親子連れに緊張したこと、汀は型抜きがうまくて、ほかの子どもと仲よく砂遊びをしていたこと……。
そのどれにも、清正は興味を示し、楽しそうに耳を傾ける。家族の次に近い場所に、お互いがいると感じた。
その関係を壊したくないと思った。
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