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第24話
送り迎えは光がすると約束したのに、清正は汀と一緒に家を出たがった。
いつの間にか、毎朝三人で電車に乗って通うのが習慣になる。マスク眼鏡生活は、ひとまず終了していた。
「どう考えても俺はいらない気がするんだけど」
清正が一緒に出て汀を連れて行くのなら、光が付いてゆく必要はないはずだ。
「まあ、いいだろう。三人で出かけると楽しいし」
「ひかゆちゃん、いっちょ」
込み合う車両の中でこそこそと小声で会話を交わしながら、三十分近い距離を揺られてゆく。
汀と清正が楽しそうにしているので、まあいいかと思って付き合うことにした。
近くまで行ったついでに自宅から必要なものを持ち帰ったり、薔薇企画に用事があれば寄ったりもできる。光にとっても出かけることはそれなりに都合がよかった。
電車が止まる度に駅の名を知りたがる汀に、小声で一つ一つ教える。ひらがなをいくつか覚えたのか、読める字を見つけると嬉しそうに目を輝かせて繰り返した。
保育所のあるターミナル駅で降りると、清正はそのまま会社への路線に乗り換えてゆき、光と汀は改札を出て隣接するビルに続く大きな陸橋を渡った。
通勤時間ということもあり保育所の中もちょっとしたラッシュ状態だ。エレベーターを降りたところで、慣れた汀は光に手を振って一人で強化ガラスの扉の向こうへ駆けてゆく。その背中が消えるのを見送ると、邪魔にならないように早々に立ち去った。
必要な連絡は汀のリュックに入れたノートに清正が書いている。スタッフと会えなくても特に問題はなかった。
一人で戻る電車内で小さな背中を思い出し、あのリュックはそろそろ限界かなと考えた。
紐で上部を絞って開け閉めする巾着タイプのものだが、キルティングの糸がほつれているし、紐の長さも今の汀には短くなっていた。
手が空いた時に新しいものを作ってあげたい気がした。
ただ……。
窓の外を流れる景色に自分の顔が重なる。その顔と「よく似ている」と言われる人のことを思い浮かべた。
あのリュックは手作りで、作ったのは朱里という人だ。汀の母親で、清正の妻だった女性。
その人に、光は会ったことがない。
清正たちは式を挙げなかったし、結婚していた期間も短かったので会いそこねた。そういうことになっている。
ほかの友人たちはいつの間にか新居を訪ねていて、口々に清正の妻は美人だと言い、光に少し似ていると言い、きっと清正の好みの顔なのだと言って笑っていた。汀が可愛いということも人伝手 に聞いた。
会いたい気持ちは大きかった。それでも、光は会いに行かなかった。
あの頃だけは、なぜか清正も光に「遊びに来い」と言わなかった。
就職したばかりで忙しいと言っていたからかもしれない。そして、しばらく会わないまま、いつの間にか清正と朱里は別れていた。
結婚を口にしたのは清正で、離婚を望んだのは朱里だったと聞いている。
朱里は最初から、清正に結婚を望まなかった。認知さえしなくていいと言い、ただ、子どもだけは産ませて欲しいと、それだけを望んだ。そう聞いている。
一人で育てるし迷惑はかけない、知らせないわけにはいかないから知らせた。そう言ってきたそうだ。
産み月は翌々月に迫っていて、今さら否とは言えない。その時期まで黙っていたことを、彼女は詫びたという。どうしても生みたかったと言って深く頭を下げた。そんな彼女に清正のほうが籍を入れようと申し出たのだ。
年の瀬に婚姻届けを出し、明けてひと月余り経った二月の初めに汀は生まれた。
そのどちらも、光は清正からの短いラインメッセージで知らされた。写真も添えられていない文字だけのメッセージに、自分がどう返信したのか覚えていない。
一番の親友の結婚と第一子の誕生。なのに、どう祝ったのか一つも覚えていなかった。
別れた時も同様だった。
離婚の理由は聞いていない。
一人で生んで育てると言った大事な汀を、朱里は清正に残した。汀を連れていくなら別れないと清正が言ったからだ。
今、彼女は月に一度しか汀に会うことができない。
芯の強い人なのだろうと思う。なぜ、汀を手放してまで清正と別れたかったのか、いつか会えることがあれば聞きたい気がした。
光が初めて汀に会った時、汀の着ていたベビー服にはあまり器用ではない刺繍で名前が記されていた。保育所に預けられる汀のために朱里が縫ったものだ。不格好に縫い取られた「みぎわ」という文字を目にした時、どうしてか光は泣きたくなった。
針を持ちなれた光ならもっと綺麗に名前を入れられる。けれど、こんなに美しいものはきっと作れない。どんな気持ちで彼女がその文字を刺繍したのか、どれほど汀を愛していたのかと思うと、何を競うわけでもないのに敵わないと思った。
くたびれたリュックは、その人が作ったものだ。不器用な刺繍で「みぎわ」と名前が記されている。
駅を出て上沢の家に戻ると、洗濯と掃除を済ませてパソコンに向かった。いくつかの仕事を納品できる状態まで仕上げてゆく。細部の微調整を重ねているうちに、気付くと昼を回っていた。
「忘れずに、必ず食べるように」と清正が置いていった弁当を一人で広げる。同じものを清正と汀も食べているのだと思うと気持ちが和み、弁当とはいいものだなと思った。
甘い卵焼きを口に運びながら、弁当を持っていったのだから清正は社内で食事をするのだと考える。今日の昼は松井に会わないということだ。
だからどうだというわけではないが、なんとなくそれを確かなものにしたくて、よしと力を込めてミニトマトを突き刺した。
そろそろ堂上から言われたコンペの準備をしなくてはならない。
ふだんならすぐに浮かぶアイディアが、どこかに隠れてしまったように表に出てこなかった。
成功への足掛かりになるとか、ロイヤリティが大きいとか、普通ならそれがプレッシャーになるのだろうが、そういったことに全く興味のない光の場合、アイディアが出ないことには、別に理由があると考えたほうがいいだろう。
作りたいものが浮かばないのは、どこかで自分をごまかしているからだ。
庭に出て、青いベンチに座った。
唇に指を当てると、なぜだか泣きたい気持ちになった。
開けてはいけない心の扉に小さな隙間ができる。
(恋……)
膝の上に広げたスケッチブックに目を落とす。恋をテーマにした作品を作らなくてはならない。光は目を閉じた。
五月の庭に零れるように咲いていたアンジェラ。その花の下の青いベンチが、閉じた瞼の裏側に鮮やかによみがえる。胸に甘い痛みが走る。
その痛みに名前を付けてはいけない。
――名前を付けてはいけない。
あの時と同じ言葉が、心の扉に鍵をかける。
名前を与えてしまったら、もっと苦しくなる。清正のそばで生きるのが苦しくなる。清正を失えば光は生きられないのに。
きっと、生きられない。
心の中で繰り返して瞼を開いた。冬の庭が弱い日差しの下にぼんやりと広がり、光を「今」という現実に呼び戻した。
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