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第25話

 翌日も作業時間を夜に取ることにして、昼寝の前に汀を迎えに行った。  前日と同じ公園に行き、母親グループの視線に必死で笑みを返しながら、動き回る汀を見守る。型抜きという特技が汀に自信を持たせているのか、まわりの子どもと元気にやり取りをしているのを見て安心し、嬉しく思いながら眺めていた。  夕方になると、顔見知りになった子どもたちに手を振って別れた。たっぷり遊んだ満足感と疲労とで、夕食を終えて風呂から上がると、汀は早々に舟をこぎ始めた。 「汀、もう寝る?」 「ん……。ひかゆちゃんもねんね……」  しがみついてくる身体を抱き上げて、清正の寝室に運ぶ。 「汀、新しいリュック、作ってやろうか」 「……りゅく?」 「うん。保育所に行くときの、かばん。いる?」 「おかばん……」  セミダブルのベッドの壁際に汀を下ろす。「おかばん、いゆ」と寝言のように答えるのに満足し、汀が寝息を立てるまでゆっくり背中を叩いていた。  横になっているうちに光の瞼も重くなる。二日も続けて慣れない気配りをしたせいか、なんだかひどく疲れていた。  すっと息を吸うと清正の匂いがした。  その匂いに包まれていると、幸福と切なさとが混じったような痛みが胸の奥で疼いた。目を閉じると、瞼の奥にきらきらと初夏の日差しが瞬く。光の中で、淡いピンク色のアンジェラの花びらが舞う。五月の庭は楽園のよう……。  ――十五の春。  もしも、あれが夢でなかったのなら……。  閉じていた心の扉がゆっくりと開いてゆく。  眠ったままだったのか、眠ったふりをしていたのか自分でもわからない。だから、夢なのか現実なのかもわからなかった。温かい手に頬を包まれて、それが清正の手だとわかって嬉しくなった。それから……。  キスをした。  ふいに塞がれた唇の意味を理解できず、動くこともできなかった。心臓は壊れそうなほど大きく鳴っていたのに、身体はまるで痺れたようで、目を開けることもできなかった。  ゆっくりと清正の気配が離れてゆく。  明るい日差しの下で光は目を開けた。目覚めただけだったかもしれない。  眠る前と同じ静かな午後が、そこに横たわっていた。むせ返るほどの薔薇の香りと五月の日差しが、青いベンチの上に零れ落ちていた。音もなく花びらが散っていた。  光は一人。ずっと、そこには誰もいなかったかのように、一人だった。 (夢だったんだ……)  心に鍵をかける。  ベッドの中で汀が寝返りを打った。体温の高い小さな身体から汗と石鹸の香りが匂い立ち、目を閉じたまま汀の柔らかい頬に触れた。  清正に彼女ができたと聞いたのは、その夢を見てすぐのことだった。薔薇の花の下で起きたことはやはり夢だったのだと納得し、そんな夢を見てしまったことも、それをどんなふうに受け止めたかも、心の奥の扉に封じて鍵をかけた。  清正は女の子と付き合う。自分にそう言い聞かせて。  しょっちゅう告白されていることは知っていた。けれど、誰かと付き合うとか、そういうことには興味がないのだと、ずっと思っていた。高校生にもなればみんな変わるのだと、そんな当たり前のことにも気付かずにいた。  光は変わらない。  いつまで経っても、ただ黙々と何かを作り続けるだけだ。  最初の彼女とはあっという間に別れたらしかった。いつの間にか別の相手と付き合い始めていて、次に聞いたのは、また違う名前だった。  何度かそんなことを繰り返すうちに、光はいつしか自分を慣れさせることを覚えた。  清正は女の子にモテる。次々といろんな子と付き合い、別れる。それだけのことだと思うようになった。  別れた後、彼女たちは清正から遠い存在になっていった。清正の彼女という立場を一時的に手に入れ、代りにそれまで手にしていた友だちやクラスメイトや見知らぬ誰かという地位を失う。永遠に清正から遠い場所に立つようになる。  彼女たちは、それでよかったのだろうか。手に入れられるものと失うものを比べて、失うものの価値のほうが小さくなければ、何かを手に入れようとは思わない。  一時の歓びと引き換えに、永遠に清正を失うこと。それに、彼女たちは耐えられるのだ。  光にはできないと思った。  光は男なので、清正を手に入れることはできない。けれど、たとえできたとしても、いつか失うのなら手に入れたくない。  清正を失ったら生きられない。  だから、胸の痛みに名前は付けない。  何も気付かない。  夢の思い出は胸の奥の扉に封じて、鍵をかける。  ずっと一番の友だちのまま、清正のそばにいる。清正に彼女ができても。  朱里との結婚を知った時、光の心はどこか麻痺していた。小さな胸の痛みも感じることができなかった。  昨日、松井と一緒にいる清正の姿を目にして、いつの間にか忘れていた胸の痛みが自分を苛むのを感じた。  本当はずっと痛かったのだ。清正が誰かと付き合っていると聞くたびに、どんなに慣れても苦しかった。光の知らないところで、清正が誰かに笑いかける。そのことが、痛かった。  光が泣くたびに慰めてくれる長い腕で誰かを抱き、光の髪を撫でる指で誰かに触れる。  そのことが。  心が痛くなる。  これ以上は何も考えたくなかった。ぎゅっと目を閉じて、汀の温かさにすがるように、小さな身体を抱きしめた。

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