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第26話

「光……」  髪を梳かれながら名前を呼ばれ、はっとして目を開ける。  清正の黒い瞳がじっと見下ろしていて、一瞬夢の続きを見ているのかと思った。今見ていた夢ではなく、十五歳の五月の庭で見た夢の続きを……。 「泣いてるのか?」  髪を撫でていた手が頬に滑り下りる。光が泣く度に、清正は優しく宥めるように触れる。親指の先で唇を弄られると、いつも心臓が苦しくなった。  黙って見上げていると、視線を唇に落としたまま清正が顔を近付けてきた。そのまま目を閉じれば、夢の続きが見られるのだろうか。そんな誘惑に囚われ、睫毛を伏せかけ、けれど光は慌てて横を向いた。  汀の髪に顔を伏せる。苦しくて、心臓が壊れそうだった。昨日と同じ。なんでもない。ふざけているだけだと自分に言い聞かせる。 「光……」  清正は光の上に覆いかぶさったまま動かなかった。すぐ横にある汀の額にキスをして、続けて光の耳の下に唇を押し付けた。  詰めていた息が漏れる。  もうダメだ。心が叫んだ。  けれど、再び息を吸い込んだ時、覚えのある香りにギクリと身体が強張った。清正の胸を押して顔を上げる。  考える前に言葉が口を突いた。 「清正……、淳子と会ったのか?」 「……どうして?」 「匂いがする。淳子の香水の匂い」  至近距離から見下ろす清正の目に奇妙な光が揺れる。 「気になるのか」  清正の顔が歪んだ。怒ったように睨んだまま、清正の手が光の身体に伸ばされる。汀から引き剥がすように引き寄せられ、強く抱きしめられた。  何が起きているのかわからないまま、心臓だけが壊れそうに鼓動を打ち鳴らした。 「清正……」 「あんな女のどこが……っ」  言葉の意味が分からない。胸に手を突いて身体を押し返すと、顎を掴まれて正面を向かされる。  噛み付かれるのかと思うような目で見られて、ぎゅっと目を閉じた。 「……ひかゆちゃん? パパ?」  汀の声に、はっとして目を開ける。清正の顔が目の前にあった。  視線を横に流すと、汀が目を擦りながらこちらを見ていた。 「汀……」  清正を押し退けて、頭を撫でてやる。「ひかゆちゃん……」と口の中で呟くと、汀は再び寝息を立て始めた。  気まずい沈黙の中、身体を起こした清正が着替え始める。スーツを脱いでネクタイを解き、ワイシャツ一枚になりながらポツリと言った。 「そのままそこにいるなら、何されても文句言うなよ」  どこかいたたまれない気分になり、向けられた背中に声をかけた。 「下、行ってる」  うつむいたまま返事のない清正を残して、ふらふらと階段を下りた。  いろいろなことが頭の中で絡まって、うまく思考が働かなかった。  和室のテーブルで布地のサンプルを広げていると、ワイシャツの上にジャージを羽織って清正が降りてきた。  家の中で、清正はいつもジャージ姿だ。  光に背中を向け、自分が作った夕食を冷蔵庫から出して、レンジで温め直す。適当な格好で地味な作業をしていても絵になるのだから、背の高い男は得だなと思った。  長い足を投げ出して、清正は無言でダイニングテーブルに着いた。  不機嫌の理由が、光にはわからなかった。  光の中にも黒いわだかまりがある。  汀のために何かするのは少しも嫌ではないけれど、清正が女性と遊ぶために、押し付けるように汀を預けるのは、なんだか違うと思った。 「仕事だって言ってたくせに……」 「仕事だよ」 「嘘つくなよ。淳子に会ってたんだろ」  黙っていられずに、言葉が勝手に流れ出る。背中を向けて座卓の前に座り直し、振り向かないまま気配を探った。  清正は低く不機嫌な声のまま光に聞いた。 「そんなに、あの女のことが気になるのかよ。忘れられないくらい憎いのかよ」 「憎いけど、今、そういう話はしてないだろ」 「じゃあ、何の話だよ」 「昨日の昼も、『ラ・ヴィ・アン・ローズ』に二人でいただろ」  言いながら、我慢ができなくなり、立ち上がってテーブルの向かい側に行き、ドスンと腰を下ろした。  正面から睨むように見ると、清正が目を伏せる。ああ、とどうでもいいような返事をして、サバの西京漬けと白米を口に運ぶ。 「……光、あの女のどこがよかったわけ?」 「どこもいいわけないだろ。っていうか、付き合ってるのは清正……」 「付き合ってない」 「う、嘘言うな。昨日も見たし、今日だって香水の匂い付けてきたし、それに薔薇企画で噂も聞いた」 「付き合ってない。そんな暇ねえよ。それより、さっきの『どこもいいわけない』って何だよ。匂いでわかるくらい惚れてて、殺したいほど好きだったんじゃないのかよ」 「なんで、そうなるんだよ」  意味が分からない。 「部屋に来るような相手だったんだろう? それなのに、裏切るみたいにデザインを盗んでおまえを捨てた。だから憎んでるんじゃなかったのか?」 「全然違う」 「あの女に惚れて……」 「絶対ないからっ!」  ドン! とテーブルを叩く。茶碗と箸をテーブルに置いて清正が背筋を伸ばした。 「あの女が好きなんじゃないのか?」 「好きじゃない。なんでそうなるんだよ」 「付き合ってたんだよな?」 「だから、付き合ってるのは清正だって……」  話が堂々巡りになりかけたところで、「誰があんな女」と、二人同時に吐き捨てた。剣呑な目で睨み合う。 「部屋に来るような関係だって言ったじゃないか」 「薔薇企画は取引先だし、あいつはチーフで依頼窓口なんだよ。だけど、俺のこと嫌ってるから、あの時に一度来ただけだ」 「なんで『あいつ』とか『淳子』とか呼んでるんだよ」 「嫌な奴だからに決まってるだろ。俺だって、あんなことされる前は、一応『淳子さん』とか『あの人』とかって呼んでたよ。なんなら雌ブタって呼んでもいいけど、それだとブタさんが可哀そうじゃないか。何の罪もないのに」  清正は再び茶碗を手に取った。じっと米の粒を見つめて何かを考え込む。 「……確かに、ブタさんに失礼だな」 「そうだ。失礼だ」 「失礼すぎる」  お互い視線を落として黙り込んだ。  清正がズズッと音を立てて豆腐の味噌汁を啜る。何回も温め直してくったりしてしまった長ネギを、箸で掬って口に含んだ。  光はほうじ茶の入った湯呑を手に取り、やや温くなったそれをごくりと飲んだ。 「デザインを盗むためにおまえに近付いて、騙して付き合って、その上捨てたから怒ってたんじゃないのか? デザインを盗まれたことなら前にもあっただろう……?」  そっくりそのままデザインを盗用されたことが過去に二回ほどあった。美大の課題と小さいコンペ、どちらの泥棒も他人の作品で得た評価で満足し、自分の手柄のように得意げに振る舞っていた。彼らが何がしたかったのか、未だに理解できない。  製品化するようなものでもなく、その場限りで終わる程度のものだったので、どちらも相手にしなかった。 「盗んだだけなら別にいい」  清正が食事の手を止めて、光に目を向ける。 「じゃあ、やっぱりあの女だから憎いのか? 付き合ってないならどういう関係……」 「盗みたければ、盗めばいい。何も生み出せないくせに目立ちたい奴なんか、いくらでもいる」 「ちょっと待てよ。それなら前の時と同じだろう。なんでそんなに怒ってるんだよ」  光はまた泣きたくなった。

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