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第28話
清正には、ずっと大事にしてもらった。
修学旅行先の博物館で迷子になった時も、つる草を刈っていて崖から転がり落ちた時も、清正が助けに来てくれた。さらに、そんな事態にならないように、ふだんから気を配ってくれた。
何かに気を取られると、光の注意力はどこかへいってしまう。トラブルをおこし、それをこじらせ、泣き喚くだけで何もできない。
そんな光のそばで、清正がしてくれたことは数えきれない。
わざわざ大事にするなどと言わなくても、ずっと大事にしてくれたではないかと、七原家の客用寝室で横になったまま考えた。
唇に手を当てると、何かで心臓を掴まれたようにぎゅっと苦しくなる。借りた布団の白いカバーにいくつもため息が零れた。
――キスを、した。
そう思うだけで胸が痛んで切なくなった。いろいろなことが怖くなってきて、考えがまとまらないまま浅い眠りに就いた。
朝食を終え、手早く食事の後片付けをしていると、洗面所で清正の声がする。
「汀、歯磨きするぞ」
「パパ、ちっち」
「一人でできるか」
「できゆ。みぎわ、よんしゃい」
パタパタと、汀がトイレに駆けてゆく。
一月がもうすぐ終わる。
数字だけのシンプルなカレンダーを捲ると、二月のページの最初のほうに、金色のペンで小さな花丸が書いてあった。汀の誕生日。
洗面所に移動し、鏡の前に立って伸びすぎた髪を括る。うなじに視線を感じてぼそりと呟いた。
「なんか、目がやらしい」
「やらしいこと考えてるからな」
背中から清正に腕を回されて心臓が跳ねる。首の後ろに唇を押し当てられ、同時にシャツの裾から脇腹に触れられて、光は文字通り飛び上がった。
真っ赤になって清正を突き飛ばす。
「うおっ」
声を立てて笑われて、からかっているのかと胡乱な目で睨んだ。
「パパ、ちっちでた」
やや乱れた服装の汀が洗面所に走ってきた。清正がかがみこみ、汀のシャツを半ズボンの中に入れて直す。
「ひかゆちゃん、おねつ?」
大きな目で見上げる汀に「違う! 大丈夫だ!」と慌てて手を振ると、また、清正が楽しそうに笑った。
絶対、面白がっている。
シャカシャカと歯を磨きながら清正が言う。
「ひかゆ、俺、元の部署に、もろっていいか」
「なんれ、俺に聞くんらお」
「んー、いてぃおー、らんとらく……」
一応、なんとなく?
うがいをして、口の中を自由にしてから「戻れば」と短く言った。
絶対、戻った方がいい。心の中で繰り返す。
髭をあたり始めた清正が、鏡の向こう側から目だけで笑った。左右が逆になった顔の、左の口元が上がって見える。
それからの数日間は、仕事が忙しいのか清正の帰りは遅かった。
朝も早く出る。
汀と公園に行く日が増え、相変わらず疲れて早く休んでいた光は、出かける清正を見送る時にしか顔を合わせない日が続いた。
何日目かの朝、ようやくふだん通りの時間に一緒に家を出ることができた。出がけにスマホを確認した清正が、駅までの道を並んで歩きながらのんびり言った。
「おふくろ、春まで向こうにいるってさ。あったかくなったら、一度戻って荷物を整理するって言ってきた」
「ずっとあっちに住むってこと?」
「うん。そう決めたみたいだな。新幹線代出すから、汀を連れて遊びに来いだってさ」
「みぎわ、しんかんしぇんのゆ!」
「あっさり決めたね」
「ばあちゃんのことが、前から気になってたんだろ」
汀の頭に手を載せて、清正が聞く。
「汀、サトちゃんに会いたいか」
「あいたい」
「それじゃ、新幹線に乗って会いに行こうな」
「しんかんしぇん!」
それから、少し間を置いて「ママにも会いたい?」と聞いた。
汀はただ、まっすぐに答える。
「あいたい。サトちゃんと、ママ、あう」
「そうか……」
清正はもう一度汀の頭に手を載せた。
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