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第29話
十分ほど歩いて駅に着く。
階段を上り、まだ開店前の花屋と、すでに人が並んでいるパン屋と弁当屋の前を通り過ぎて改札を抜けた。
なるべく混んでいない後ろの車両に乗るために、長いホームを三人で歩いた。
「光、今度の木曜日、汀を朱里に送り届けてもらえるか」
「木曜日?」
「うん。汀の誕生日だろ。会いたいって言うんだ」
ああ、と曖昧に頷いた。
二日は汀の誕生日だ。けれど、一日付で異動になる清正は、休みの都合がつかないのだった。
「いいよ。さっきの改札のあたりに連れていけばいいのか?」
「階段上がってすぐの、花屋の前にいると思う。汀がわかるから」
「うん。わかった」
汀の小さな手を握りしめて頷いた。
汀は熱心に「かみさわ」と駅名が書かれた、白い板を見ている。二つ目の文字を指差して「み」と小さく呟いた。
おっ、と思った。「すごいじゃん」と頭を撫でてやると、続いて「さ」を指差して首を傾げる。
「き……?」
「ああ、惜しいな。それは『さ』。サトちゃんの『さ』だな。『き』はもう一つここに、こんな感じで線がある」
上に一本、横向きに指を添えてみせると、汀はこくりと頷いた。
保育所のある駅で一緒に降りる。歩きながら清正が言う。
「引継ぎ一段落したし、今月はもう、早く帰れると思う。汀の迎えは俺が行くよ」
「うん。わかった」
改札で手を振る清正を、汀と二人で見送った。開発の仕事に戻ると決めて気持ちがすっきりしたからかだろう。最近の清正は、ずいぶんと機嫌がいい。
人混みに消えてゆく背の高い後ろ姿を見送りながら、唇に手を当てた。
トクンと、心臓が小さく音を立てる。
数日が過ぎてやっと、光は自分の心の中を覗く勇気をかき集め始めた。壊れないように、大切な何かに触れるように、そっと覗く。
あのキスは夢ではない。
けれど、どうして清正があんなことをしたのかわからなかった。
恋愛経験が皆無の光が自分の性癖を判断するのは難しい。だが、清正は完全に異性愛者 だ。同性と経験したことはないと言っていたし、結婚もしていたし、何より汀という立派な子どもがいる。
ゲイでもないのに、どうして。
もう一度唇に触れる。まだ感触が残っている気がした。冗談や悪戯なら絶対に許さないぞ。そう思うそばから泣きたくなって、やはりまだ、考えるのはよそうと思った。
「ひかゆちゃん?」
汀に手を引かれて我に返った。
「あ、悪い。行こうか」
ペデストリアンデッキを渡り、四角いビルの四階に上がり、混雑するエレベーターホールで汀を見送った。
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