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第30話
いくつかの納品と新規の打ち合わせのために薔薇企画の本社に寄ると、この日も井出が光を出迎えた。井出は、珍しく憔悴している。
「このところ、チーフの機嫌が悪くてねぇ……。なんか、例の彼氏とうまくいかなかったみたいなんだよね……」
「へえ……」
「コンペの準備も進んでないらしくてさ、荒れちゃって大変なんだよ」
少しでも気に入らないと、厳しくダメ出ししてくる。いいデザインでも、認めない。デザイン課全体がピリピリして、このままでは新人が辞めてしまうのではないかと頭を抱える。
こんなに悩んでいる井出を見るのは初めてだ。
「此花くんみたいに鉄のメンタルを持ってる子ばかりじゃないんだから……。その上、実力がある外注デザイナーさんも切っちゃうしさ」
「切るって?」
「仕事ができる外注さんでも、気に入らないと切っちゃうんだよ。その人には仕事を出すなってハッキリ言ってくる。気に入らないからって。此花くんの時もそうだったんでしょ? 何かもめごとがあって、淳子さんに逆らって切られたんだよね? でも、そうやって緩いところしか残らなくなると、正直出来がねぇ……」
かと言って、意見をすれば自分に矛先が向くのは目に見えている。井出は深いため息を吐いた。どうにか少しでもまともな発注先を見つけて回しているが、正直、限界だと泣き言を繰り返す。
「ほんと、いい加減にしてほしいよ。言えないけどさ……」
くったりと机につっぷす井出を「大変そうだなぁ」と眺めながら、松井は案外人望がないのかもしれないなと考えた。いい話しか聞かされてこなかったが、それは悪い話をすれば立場が危うい考えた周囲の処世術だったのかもしれない。
(『裸の王様』かよ……)
帰り際、受付カウンターの前を通りながら、白いボードに並べられた案内写真をチラリと見た。
品よく控えめな展示の中で、一際目を引く場所がある。
自信に満ちた笑顔がこちらを見ている。その下に「JUNKO」の横文字。チーフデザイナーの肩書きと、一見きらびやかそうな経歴が並ぶ。『デザイナー生活十周年記念作品』、『会員限定商品のメインデザインの担当』。誰でも普通にしてきた仕事を、いかにも立派な言葉に変えて宣伝する技術はたいしたものだ。
頻繁に名前を出し、それらしい実績をアピールすれば、何も知らない人間に何らかの価値があると錯覚させられる。実際の作品の出来栄え以上に宣伝ばかり上手い者、マーケティングやセルフプロデュースに長けている者が勝者になる。
けれど、そんなふうにして、本当によいものや、それを作り出す人間が脇に押し退けられるようになれば、そのジャンルは衰退するだろう。
井出の言葉を思い出し、眉をひそめた。
光以外にも松井に切られた人間がいる。
堂上の指示がなければ光も仕事を切られたままだった。松井がどんなやり方をしているのか知らないが、立場を利用し、自分に都合よく従う人間だけを使い、逆らう者や弱い立場にいる者を排除していけば、商品の質は必ず下がる。
よりよいものをエンドユーザーに届けるという、ものを作る人間の純粋な使命と矜持を失えば、どんなブランドの商品でもいずれは価値を失うだろう。価格だけを武器にものを売る、ディスカウントショップやワンコインショップに簡単に客は流れる。
そうして、質の悪い商品ばかりが世界に供給される。
光にとって、何かを作ることは使う相手に寄り添うことだ。まわりと上手くやれないからと言って、世の中を嫌っているわけではない。言葉や態度でうまく表現できなくても、作ったものを通してなら伝えることができる。
辛いことも楽しいこともある人生の、暮らしのどこかで誰かに使ってほしい。褒められなくても、感謝されなくてもいい。ただ、気持よく使ってくれれば十分なのだ。
一方で「どんぶり勘定だ」と清正に怒られながらも、デザインの対価として報酬を要めるのにも理由がある。
家族のために嫌な取引先に頭を下げる、自分のことは後回しにして節約し、パートに出て働き、子どもや家族の面倒をみる、あるいは一人で子どもを育てる、家族と離れて一人ぼっちで生きる、そんな人たちの暮らしの中にもモノは存在する。
その人たちが社会で得た大切な金で、ささやかな雑貨を買ってくれるのだ。尊い「金」と引き換えに、光が作ったモノを迎え入れてくれる。その対価に値するものを作りたい。それが光の矜持だった。
雑貨と暮らす人たちに、光にできること。力を尽くしてよいものを作ること。
安全で清潔で使いやすく、そばに置いても邪魔にならず、暮らしの快適さを増す。生活雑貨の美しさは使い勝手や手入れのしやすさまで含めて細部に宿る。
そういう雑貨を当たり前に作りたい。それは、多くのデザイナーが願っていることでもあると信じている。
自分の好き嫌いだけで優秀なデザイナーを排除する。
松井のしていることは、「ものを作る」という営み全体への冒涜だ。
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