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第34話

 キスは好き? と清正が聞く。  朝、汀を起こす前のリビングで、夕方、汀を先に洗面所に向かわせた後の玄関で、少しかがむように顔を近付けて、清正がキスをする。  軽く触れるだけの時もあれば、口の中を舐められて膝が崩れそうになることもあった。  挨拶のように慣らされたキスのほかには、「明日から頑張ろう」が実行されることはなかった。以前よりも少しスキンシップが増えたくらい。   一月最後の夜、異動後の残業に備えて、清正は惣菜の作り置きを始めた。  夕食後の片付けもついでにやると言うので、代わりに光が汀を風呂に入れる。 「汀、ちっちでたか」 「ひかゆちゃん、おじゅぼんが……」 「風呂入るんだから、上手に穿けなくてもいいんだそ。どうせ脱ぐんだし」  切り損なって伸びてしまった髪を後ろで一つに括りながら、トイレに向かって声をかけていると、いつの間にか後ろに立った清正に捕まる。  あらわになった首筋にキスを落とされて息を止めた。 「おまえ、白いよなぁ……。痕とか付けたら目立ちそう」 「あ、痕……?」 「見えるとこには付けないよ。ほかの男が欲情したらやばいし」  何を言ってるんだと胡乱な目で睨みながら、腕を解く。光をくるりと回転させて向かい合うと、清正の指がおもむろにシャツのボタンを外し始めた。 「なんで、ボタン外すんだ」 「どうせ脱ぐんだからいいだろう」 「じ、自分でやる」  いいからやらせろと言う清正と謎の攻防を繰り広げていると、ずり落ちた半ズボンを気にしながら汀がリビングに戻ってきた。  「ひかゆちゃん、おじゅぼん」 「い、今行くっ」  小さな勇者に救出されて、無事脱衣所に逃げた。背中で清正が笑っている。  翌日はいつものように三人で家を出た。  途中の駅名を一つ一つ小さな声で読み上げながら、汀の保育所のある駅まで揺られてゆく。「平瀬(ひらせ)」と言う名の駅で、汀が嬉しそうに「ひ」と口にして光を見上げた。 「おしょとに、どややきがあゆの」  よくわからないことを呟いて汀が扉の外を指差す。窓から差し込む日に透けて、茶色い髪がきらきら光っていた。  保育所のある駅で降りると、帰りの時間が読めないので迎えを頼むと言って、清正は乗り換えていった。  上沢に帰る前に、しばらく締め切ったままの清正のマンションに立ち寄った。ざっと空気を入れ替える。聡子の留守を預かる間、一時的に空ける程度の予定だったので、清正はマンションの解約をしていない。家具や家電製品も残したままだ。  清正は、このまま上沢に住むつもりなのだろうか。  だとしたら、ここも解約するのだろうか。  仕事や汀の保育所のこともあるし、すぐには決められないのかもしれない。そんなことを考えながら、あまりモノのない1LDKを見渡して、清正と汀の三年間に思いをはせた。  今よりももっと小さな汀が、棚の上のフォトフレームの中で幸せそうに笑っていた。  続けて自分のマンションにも寄り、郵便物をチェックした。  電気やガスの滞納を知らせる通知は来ていない。「よし」と思うが、よく考えたら前回の支払いからひと月経っていなかった。  それでも、清正に言われて銀行口座の残高を確認しているし、仕事の依頼も増えている。全体的に大丈夫なはずだと、一人自分に言い聞かせて、うんうんと頷きながら部屋を後にした。

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