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第35話
上沢の家に帰ると、スケッチブックを手にして庭に出た。
急ぎの仕事は全部済ませてある。青いベンチに腰を下ろして、春の気配をまとい始めた日差しを受けていた。葉の少ない枝の間から、のどかな光がゆっくりと零れ落ちる。
目を閉じれば銀色の光をまとって咲き誇る、淡い色の花が浮かぶ。
(恋……)
唇に指を当てると、何度も教えられた甘い感触がよみがえった。
清正のキス。
しっとりと触れて、慄 くように離れていった十五歳の夢の記憶。そこに、指先の下に残る温かな感触が重なる。
薔薇の下で。
小さな罪に似た棘に包まれ、封じられてきた記憶。その鍵がカチリと音を立てて開く。
――あれは、夢ではなかったのかもしれない……。
降るように咲くアンジェラの下の短い口づけ。
鼻の奥がつんと痛んで、瞬きすると涙が零れ落ちた。スケッチブックの表紙の上にポトリと一つ、丸い染みが広がる。
「清正……」
ふいに、松井に改変されたデザインが頭に浮かび、顔を歪める。
もしも……。もしも、またあんなふうに勝手に変えられたら……。そう考えると心が凍り付く。
あんなふうに殺されるために、ものを生み出したのではない。ガラスで作られた四角い照明器具を思い浮かべる度、今も悔しさが心で燃えているのを感じる。この熾火は、おそらく一生消えないだろう。
あれ以来、ほかの仕事をする時には、努めてこの火を忘れて作業をしてきた。また壊されるかもしれないという恐怖は、まわりが思う以上にモノを作る人間を蝕む。その恐怖と闘い、あるいは慎重にを押し退け、作業を続けてきた。
光はプロだ。何があってもデザインを生み出さねばならない。
今度も……。
胸に手を当てて目を閉じた。
ここにあるものを壊されたら、光は死んでしまうだろう。きっと、生きられない……。
怖い、と思った。
同時に「恐れるな」と自分を追い立てる声が、同じ場所から聞こえる。
一番柔らかく、傷つきやすい場所にあるもの。それを、今、捉えなければならない。
光が知る、この世で一番美しいものを。
「清正……」
――おまえが、好きだ。
Under the Rose――。薔薇の下には秘密が隠されている。
胸の奥深く、閉ざされていた秘密の扉が開く。
決して名前を付けてはいけない。
恐れ、隠し、ないものとして扱ってきた想いが、明るい日差しの下に現れる。
胸の痛み。咲き誇るアンジェラ。やわらかな風を受けて、踊りながら零れ落ちる銀色の光と淡いピンクの花びら。
その想いに、光は名前を付けた。
スケッチブックを開くと一本の線を引く。後はただ、心のままに鉛筆を走らせた。
コンペの締め切りが近い。残りひと月でデザインを起こし、いくつかを試作品を作り、プレゼンボードを作成する。
頭の中にはすでに形があった。鉛筆を動かしながら、制作に必要な材料と試作を頼める職人のリストを思い浮かべ、スケジュールを組む。
小さな恐れが胸の奥を焦がす。
作り手は、自分の一部を切り取るようにして何かを生み出す。
作品を作ることは子どもを育てることに似ている。いつか自分の手を離れ、世の中に送り出されることを前提にしている。手放すために育てる。自分の手の中にあるのに、自分のものですらないのだ。なのに、それを傷つけられれば、自分を傷つけられるよりもずっと深い痛みを感じる。
白い紙の上に形が浮かび上がると、ここにあるのはただの一部ではなく、光の身体の中心に通る芯のような、光の魂そのものだと感じた。
これを壊された時、光は本当に死んでしまうだろう。
村山アクリルに行って試作品を頼みたい。けれど、今日は汀の迎えも頼まれていた。
少し考えて、村山アクリルへは明日行こうと決めた。
明日は汀の誕生日だ。汀は朱里と出かけて一日いない。
保育所に迎えに行くと、この日も昼寝が始まったところだった。昼寝中はおしゃべり厳禁。光はいつも無言で会釈をする。
よく考えると、光は、汀の周囲にいる大人と会話を交わしたことがなかった。保育所では「しー」と指を立てられ、無言で汀を受け取るし、公園では離れた場所から笑い返すだけだ。
母親たちの輪に入る勇気はなかった。何を話せばいいのかわからないし、汀が困らないなら、それで許してほしいと願いながら、少し離れて立っていた。
汀のほうはなかなか社交的で、公園に着くと、何度か遊んだことのある友だちが駆け寄ってきて手を引いてくれる。汀も応えて、にこにこ笑いながら仲間に加わる。夕方までたっぷり遊び、大きな声で手を振り合ってさよならを言う。
「みぎわちゃん、ばいばーい」
「また、あしょぼーねー」
満足そうに輝く顔を見ていると、また連れてこようと思うのだった。
愛想笑いくらいいくらでも頑張ってみせる。そんな決意をしながら。
手をつないで家に帰り、清正が作り置いた夕食を汀と二人で食べた。風呂に入れてしばらくすると、この日も汀は早くにうとうとし始めた。
「汀、もう寝るか」
「ん……」
「明日、誕生日だな。ママとどこか行くんだろ?」
「ん……」
同じ返事しか返ってこない。
苦笑しながら、温かい身体を抱き上げて二階に運ぶ。ベッドに下ろすと「しゅいじょくかん……」と寝言なのか返事なのかわからない言葉が聞こえた。
「水族館か。楽しんで来いよ」
髪を撫でてやると、閉じた睫毛が寝息に合わせて小さく震えた。あどけない顔を眺め、早い時間に寝れば、明日は元気に出かけられるだろうと思って満足した。
一人になると、和室の座卓にリュックを二つ並べて置いた。
一つは今使っている古いもの。縫い取られた「みぎわ」の文字を眺め、明日はこの文字を刺繍した人に会うのだと思った。
もう一つは、誕生日プレゼント用に光が作った青いリュックだ。
光は古いリュックの中身を出して、空にした。
スキャナーで「みぎわ」の文字をパソコンに取り込み、USBをミシンにつなぐ。
清正は汀の服やタオルに油性マジックで「七原汀」と書いていた。それを見た時はあまりの味気なさにため息が出た。男手一つで育てているのだから仕方ないと思いつつ、いつかラベルを作って縫い付けてあげようと前々から思っていたのだ。
文字を覚え始めた汀は、ずっと使っていたリュックに書かれていたのと同じ文字を見て、どれが自分のものか見分けることができるだろう。
少し不格好な朱里の刺繍は、ラベルにすると味が出た。
新しいリュックにもそのラベルを縫い付け、古いほうのリュックにタオルと予備の着替えと、清正が用意した汀の好きなチョコレート菓子を詰めて、翌日の準備を整えた。
新しいものを渡すのは夜でいい。
あの人と別れて、汀が帰ってきてからでいいのだ。
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