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第37話

 翌朝、光がリビングに下りていくと、清正はすでに起きていた。朝食の準備もしっかり整えられている。朝から汀の好きな五目稲荷が並んでいる。 「汀、起こしてきてくれるか」 「おまえ、何時に起きたの? ほとんど寝てなくない?」  大丈夫か? と聞くと「全然平気だ」と笑うが、目の下に隈ができていた。二日酔いと寝不足のダメージはしっかり受けているようだ。 「あの職場、飲みが激しいんだよな」 「そうなんだ……」  『プチ歓迎会』とやらあれだけ酔うなら、本格的な飲み会はどんなものになるのだろう。想像するだけで恐ろしい。  ふと、また酔っぱらって昨日みたいなことをされるのだろうかと考えてしまい、心臓がドキドキしてくる。慌てて、汀を起こしに二階に引き返した。 「汀、お稲荷さん美味いか?」 「うん。おいちい」  みそ汁はめずらしくインスタントだった。五目稲荷で力尽きたのだろう。自分の分だけさりげなくしじみ汁にしているのを見て、思わず言った。 「つきあいもあるだろうけど、あんまり無理するなよ」 「ああ」 「今日も遅くなりそう?」 「汀の誕生日だし、なるべく早く帰らせてもらうつもり」  ほっぺたに蓮根をつけて、汀が聞く。 「おたんじょーかい、しゅる?」 「ああ、丸いケーキ買おうな」  きゃあっと汀は歓声をあげた。「まゆいけえき」と繰り返して、椅子の上でぴょんぴょん跳ねる 「危ないぞ」  光と清正が同時に言い、汀は慌てて跳ねるのをやめた。 「じゃあ、よろしくな」 「うん」  玄関で清正を見送る。汀の頭を撫でて「いい子にするんだぞ」と清正が言った。  朱里との待ち合わせ時間は十時。それまでの間に朝の片付けと掃除と洗濯を済ませた。庭の水やりをしながら、一人で着替える汀を見守った。 「大丈夫か」 「らいじょぶ。みぎわ、よんしゃい」  ボタンを一つ留めたところで、汀が指を四本立ててみせる。光が笑うと、満足そうに続きに取り掛かった。  これから朱里に会う。とうとう、その日が来た。そう思うと、そわそわと落ち着かない気分になった。  時間まで、リビングのテーブルで絵を描いて過ごした。汀の絵を見ながら、自分も好きなものを描いていた。そうするうちに、少し気持ちが落ち着いてきた。 「そろそろ支度するぞ」 「あーい」  服の乱れを直してやり、よそゆきの新しいコートを着せる。フード付きのベージュのコートは汀によく似合っていた。もう一度顔を拭いてやり、髪を軽く梳いて、小さな紳士を完成させる。 「デートなんだから、カッコよくしないとな」  駅まで、十分少々。早めに家を出て、手をつないでのんびり歩いた。幼稚園の前を通る時、砂場を見つけた汀が足を止める。 「水族館、行くんだろ」  黙って頷くけれど、歩き始めてからもちらちらと砂場を振り返っている。こんな時、清正はどうしていただろうと考えて、なぜか古い記憶が頭によみがえった。 『光、明日また来よう』  林の中でどんぐりを抱えた光の頭を、そう言って清正は撫でた。夕暮れが迫って、あたりは暗くなり始めていた。清正は少し困った顔をしていた。  あの時の自分と今の汀は同じなのだろうか。そう思うと、ちょっと複雑な気分になる。 「汀、明日また公園行こうな」  頭を撫でてやると、汀は一度光の顔見上げ、すぐに前を向いて歩き始めた。  駅について階段を上がると、改札前のコンコースに女性の姿があった。 「ママ!」 「汀!」  駆け寄った小さな身体を抱き上げて、朱里がぱっと笑った。 「四歳、おめでとう」  汀がキャッキャッと笑う。光は離れて、その人を見ていた。  綺麗な人だ。  想像していたよりも、ずっと。  光と目が合うと、朱里が頭を下げた。 「今日は、どうもありがとうございます」  光も軽く会釈を返す。視線をを上げると、朱里が笑っていた。 「似てないわ」 「え……?」 「清正くんのお友だちに何度か言われたんです。私とあなたが似てるって……。でも、あなたのほうがずっと綺麗」  光は首を振った。違う。逆だよ、と思うが、言葉がうまく出てこなかった。 「ひかゆちゃんも、くゆ?」  朱里に抱かれたまま、汀が光を見上げて聞く。 「行かないよ」  短く答えると、汀はガッカリした。 「汀、今日はママとデートでしょ? デートは二人でするのよ?」  おしゃれしてきてくれて嬉しいと言って、朱里が汀の頭を撫でる。薬指に嵌めた指輪の石がきらきらと光った。  その左手が、肩にかけたトートバッグを器用に探って小さな袋を取り出す。 「これ、よかったら食べてください。うちの近所の和菓子屋さんのなんですけど、とっても美味しいんです」  光は黙って、それを受け取った。  汀が「どややき?」と聞くと、朱里が「そうよ」と頷いた。 「夕方、駅に着いたら電話しますね」  そう言うと、朱里は汀を連れて改札を抜けていった。細い背中が階段の下に消えてから、スマホの番号を知らせていないことに気付いたが、上沢の家にかけてくるだろうと思ってそのままにした。 「清正くん、か……」  清正をそんなふうに呼ぶのか。  静かで優しそうな人だったなと、振り返る。  清正と付き合っては別れる女性たちを、光はどこかで恐れていた。清正を失っても生きてゆける。彼女たちは、光よりも強い人間なのだと勝手に思い込んでいた。  強くて、心がなくて、何かの記号のような存在。  けれど、実際に会ってみれば、朱里はごく普通の優しそうな女性で……。  汀の母親だった。  受け取った袋を見る。 「あれ?」  昨日清正が持って帰ったものと同じだ。なかなか可愛らしいデザインでネコの絵が描かれている。 「平瀬の『どら屋』……。よほど美味いどら焼きなのか?」  汀の髪を撫で、この袋を手渡した指に石がキラリと光っていたのを思い出す。特徴的な爪の形は、ヘプバーンの映画で有名なニューヨークのブランドのものだ。  ランプのデザインを勉強したくて、はるばる本店まで行ったことがある。  左手の薬指……。  朱里と清正は大学で知り合った。年は光たちと同じだと聞いている。二十六か二十七なら、再婚の話があってもおかしくないだろう。  どんな人と幸せになるのだろう。どんな人であっても幸せになってほしいと、ぼんやり考えていた。

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