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第38話

 一度上沢の家に帰ってから、クルマで秩父の村山アクリルに向かった。平日なのでほかの職人も何人かいたが、村山が自ら迎えに出てくれた。 「試作か?」 「うん。今、いい?」  いいぞ、と軽く頷いて奥の事務所に向かう。事務所の中はかすかにいい匂いが漂っていた。 「堂上のとこのコンペに、光も出すんだろ? なかなか来ないから、俺の出番はないのかと心配してたぞ」 「ないわけないし」  光はスケッチブックを手渡した。それを開いて村山が呟く。 「手描きか」  パラリ、パラリ、と一枚ずつゆっくり捲っていた村山が、呻くように言った。 「光、おまえ、やっぱりすごい奴だな……。これ、絵として普通にすごいじゃないか。しかも、出来上がったらめちゃくちゃカッコイイな」 「CGのほうが質感の設定ができてて、記号としてわかりやすいかなとは思ったんだけど」 「いや、これで十分わかる。ってゆうか、よくこれだけ描けるな。CGで伝わらない繊細なニュアンスまでわかるぜ」  それは村山のほうにも感性が備わっているからだ。  普通の人間には、これは厚さ何ミリの透明度ですよと、設定された記号としての画像のほうが伝わりやすいことも多い。  手描きならはるかにたくさんの情報を乗せられるが、仕事の場ではそこまで必要とされないし、受け手の力量が測れないこともあって、プレゼン資料はCG化している。変更があってもすぐにフィードバックできる点も効率がいい。  けれど、今回の場合は手描きのほうが速い。相手が村山ならなおさら。 「この中の、これとこれをうちで試作するんだな?」  村山は正確にアクリルを使うデザインを指差した。 「この青い石の部分はどこかで別注するのか」 「人工のサファイアを使いたいと思うんだけど、どこか作ってくれるとこあるかな?」 「ガラスやアクリルじゃなくて、合成コランダムってことか? 俺の知り合いで作れる奴がいるにはいるが……」  実は当てにしていたと、正直に言う。村山は工学部の出身で、光や堂上とは違う人脈を持っているのだ。 「社長が、『ラ・ヴィ・アン・ローズ』より高級路線で売るって言うから、最初は本物で作ってやろうかと思ったんだけど。でも、それだと宝石の値段になっちゃうしな。それに形や大きさが均一で自由になるほうがいい」  光の屈折率が同じなら、人工のもののほうが使いやすい。 「そうだな。じゃあ、後で早速聞いてみるよ」  それから、石やほかの装飾を内包させる際の技術的な話や、張り合わせの難易度などを検討した。村山のアドバイスは的確で、試作段階では可能でも量産には向かないもの、量産する場合でも数が少なければ手仕事で対応できるものなどを、細かく明示してくれた。  それらを吟味し、どこまで可能かを擦り合わせてゆく。  いくつかの変更点を確認して打ち合わせを終える。CGのデータであれば、今回の修正もプレゼン資料にフィードバックできる。それでも、今回は手描きで出したかった。  時間をかけてペンで線を引き、絵の具を使って色を付けていると、懐かしい時間が心によみがえってくる。時間が限られている中で作業をしていても、今回の作品には、その「時間」をかけることが大切な気がした。 「こっちの銀細工の花はどうする?」 「自分で作ろうと思ってる」 「細かそうだな」 「うん。だから、できる人探して頼んでると間に合わないと思って」 「ふうん。なるほどな……」  村山に依頼したのは大小のトレイとテッシュケース、それに今回一番力を入れているスタンドライトの試作品だ。  ほかに同系列のデザインでグラスと皿と水差しがあるが、こちらはガラス工房に依頼するつもりだった。  食器に関しては口につける分部の質感や温度を考えるとガラスを使いたい。それは村山も了承している。 「この絵付けもおまえがやるのか」 「試作品だけね」  忙しくなるなと村山が肩を叩いた。  銀細工はかなり時間がかかるだろうから、工房に届けるのは最終週で構わないと言われて、正直ほっとした。仕事の合間に作業するとして、最短でも二週間はかかるだろうと踏んでいたのだ。  礼を言って工房を後にした。その後はガラスの試作品を扱う別の工房に立ち寄り、同じように打ち合わせと検討を繰り返した。村山同様、信頼のおける依頼先で、忌憚のない意見を聞かせてくれる。技術的な確認をし、アドバイスをもらい、いくつかの変更点を洗い出して試作品の依頼をする。二月の中半に一度、光の作業を入れることで予定を詰めた。  帰りに必要な材料を買い揃え、上沢の家に帰るとそのまますぐに作業に取り掛かった。  薄い銀をさらに薄くのばして小さな花びらを作る。一枚一枚作ったたくさんの花びらを集めて一つの花にする。その花を、いくつもいくつも作る。  零れるように咲き誇る数千の薔薇をイメージして、細かい作業を続けた。  製品化する際には型を作って工程を短縮するが、今の段階では手作業でコツコツ仕上げてゆくのが一番確実だった。  小さな銀色の花が集まって、パーゴラの天井を埋め尽くすアンジェラのようにきらきら光る。  光はいつもその花の下にいた。  清正と青いベンチに座って、どうでもいい話をして、本を読んで、昼寝をした。  そして、キスをした。  初めてのキス。  夢だったのか現実だったのかわからないまま、名前のない気持ちと一緒に心の奥に仕舞い込んで、秘密の鍵をかけた。  失うことが怖くて、本当の名前を知るのが怖くて、一番柔らかくて傷つきやすい場所に、生まれたままの想いを隠した。  忘れようとしても忘れられないまま、十年以上経っても、少しも色褪せずにその気持ちはそこにあった。  名前を与えると、それは溢れるように流れ出して光の中を埋め尽くした。  ――『恋』……。  清正を失えば死んでしまう。  この気持ちが壊れたら、きっと死んでしまう。  そうやって怯えてきた日々を一つ一つ拾うように花を作る。  壊さないように、慎重に、息を詰めて、小さく繊細な花を作り続けた。

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