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第39話

 突然、固定電話の呼び出し音が鳴り、光は驚いて座卓に膝をぶつけた。 「げ……っ」  足を引きずりながら慌てて受話器を取ると、駅に着いたので汀の迎えを頼みたいと朱里の声が言った。すぐに行きますと答えて、駅に向かった。 「ひかゆちゃん!」  飛び込んでくる笑顔の塊を抱き上げた。優しい笑みを浮かべて、朱里がそれを見ていた。 「お迎え、ありがとうございます。汀をよろしくお願いします」  それだけ言うと、深く頭を下げてから改札を抜けてゆく。 「汀、またね」 「ママ、ばいばいね」  手を振って別れる母と子の姿を光は黙って見ていた。こんな親子の挨拶もあるのだと思うと胸が痛くなる。 「楽しかったか」  疲れているだろう汀を抱いて、家に帰る道を歩いた。  朱里に渡された大きな土産袋もある。片手で抱いているのがやや不安定だった。  「おしゃかなしゃん、いーっぱいみたの。あおいのと、ぎんいろのと、いろんないろの。あと、ペンギンしゃんもみたの」 「すごいな」 「しーゆぶっくとぬいぐゆみ、あゆの」  大きな土産袋に汀が手を伸ばす。傾いた身体を落としそうになって、慌てて足を止めた。 「みぎわ、あんよしゅゆ」 「大丈夫か?」 「みぎわ、よんしゃい」  パッと笑顔になって、親指だけ折った右手を得意そうに見せる。  そのまま下ろして歩かせることにしたが、汀は立ち止まったまますぐには歩かず、土産袋を渡せと言ってきた。中から大きくて長いブルーグレーのぬいぐるみを取り出して光に見せる。 「ママがかってくいぇたの」 「おお。すごいな」  思いのほか精緻な造りのハンマーシャークに、光は思わず感嘆の声を上げた。 「ちょっと見てもいいか?」 「どおじょ」  ぐいっと差し出されたぬいぐるみを手に取ってしげしげと眺める。細かい部分まで丁寧に作られている。さすが水族館のハンマーシャークだ。そんじょそこらのぬいぐるみとはわけが違った。 「すごいな」  本気で呟くと、汀は満足そうにきゃふっと笑って、ブルーグレーのぬいぐるみを抱き締めた。  手をつなげなくなったので、コートのフードを掴んで歩いた。  途中でへたった汀を抱いて家に帰り、ハンバーグとシチューという汀の好きなメニューばかりをダブル構成にした夕食を温めていると、玄関が開く音がする。 「パパ!」  汀が走って迎えにゆく。  片手に通勤かばん、片手に汀とケーキを器用に抱えて、清正がリビングに入ってきた。光は慌ててケーキの箱を受け取る。  すでにいつもより品数の多い食卓に、ホールケーキとどら焼き六個が並び、ハッピーバースデーの歌を歌う。クリームの上で赤々と燃えている四本のろうそくを、汀がふうっと吹き決した。 「汀、誕生日おめでとう」  リボン付きのラッピングバッグを手渡すと、汀がきゃあっと嬉しそうに叫んだ。  中身を見て目を丸くする。 「おかばん。あいあとぉ」  ぎゅっと抱き付いてくる身体を抱き返した。  さすがに全部は食べきれず、ケーキの半分とどら焼きは翌日に持ち越すことにした。一日遊んで疲れた汀は、ケーキを半分食べたところでうとうとし始める。 「汀、寝るなら歯磨きするぞ」  清正が声をかけてもぼんやりしている。  仕方ないなと抱き上げて、ほとんど眠ったままの汀を膝に載せて清正が歯を磨いた。もう風呂はいいやと苦笑して二階に運んでゆく。  戻ってきた清正に、村山アクリルで作ってもらった四角い照明器具を渡した。 「例のやつか」 「うん。汀の誕生日にあげようと思って試作頼んでたんだ」 「うん。こっちのほうがずっといいな」  角のないライトを眺め「サンキューな」と言って微笑んだ。 「いい誕生日になってよかったな」 「ああ」  ワインがあるぞと言われて、笑った。 「飲むと、おまえエロくなるんだもん」 「飲まなくてもエロくなるぞ。言わなかったか?」  光を立ち上がらせて、啄むようにキスをする。キスは好き? と清正が聞く。光は素直に頷いた。 「キスは好き? 逆から読んでも?」 「え? キスは好き?」  ふはは、とつい笑ってしまった。  バカだ、と言うと「好きだよ」と囁いた清正が、唇を塞ぐ。何度も繰り返しキスをしながら服の下に手を滑り込ませた。 「ん……」 「光」  和室の畳の上に転がされて、覆いかぶさる清正に深く唇を貪られた。服の下を滑る指が身体の線を辿り、胸の飾りをそっと摘まんで転がす。 「あ、ん……」  絡む舌にぼうっとなりながら、腕を伸ばして清正に縋った。 「清正……」  好きだ。  服の上から広い背中に腕を回した。テロンとやわらかいジャージの表面はするする滑って、しっかり掴めない。なんだかジャージごと清正がどこかに行ってしまいそうで、少し不安になる。  ほかの人にもこんなことした?   心の中で声がした。  イエスの答えなど聞きたくないから、口には出さなかった。  いつか……。  いつか失う日が来ても手に入れたいと願うのは、失うことが怖くないからではないのだ。それが今わかった。  ただ触れて欲しくて、キスをしてほしくて、先のことなど考えられなくなるからだ。  もっと近くに行きたくて、清正が欲しくて、今だけが全てになるからだ。  清正の彼女だった人たちも、みんなそうだったのだ。  朱里の穏やかな笑顔が瞼に浮かんで、どうして彼女は、自分から清正を手放したのだろうと、甘い官能の中でぼんやりと思った。

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