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第40話

「ひかゆちゃん、みて」  大きな丸い型抜きの上に、一回り小さい型抜きを載せて汀が満足そうに見上げる。 「お。すごいな」  二段重ねの砂のケーキだ。これを作るのは大人でも難しい。  慎重に三段目を載せようとするが、先に下の段が崩れた。 「あ。ちっぱい」  誕生日ケーキの箱に添えられていた店のパンフレットに、ウエディングケーキの写真が大きく載っていた。三段重ねの華やかなケーキだ。  それをキラキラした目で見つめていた汀は、翌日から庭の砂場でケーキ作りに没頭し始めた。毎日黙々と試行錯誤を繰り返している。  飽くなき挑戦は、今日で三日目。なかなかの執念深さだ。  汀の誕生日会の後、和室の畳の上で清正に押し倒された。キスをされ、パジャマの内側に手を入れられて肌を探られた。さらに、そのままの勢いで、下着の中の欲望にまで直に触れられてしまったのだ。  光は慌てた。  触られただけでもパニック状態なのに、あろうことか清正は『舐めてやろうか』と耳元で囁いた。気付いた時には清正を突き飛ばし、悲鳴を上げて逃げ出していた……。  嫌だとか気持ち悪いとか、そんなふうに思ったわけではない。  まだ自分でも知らない剥き出しの何かが、いきなり清正の前に晒されたようで怖かったのだ。 (あんなこと……)  思い出すと未だに顔から火が噴き出す。 「もぉいっかい、ちゅくゆよー」  宣言して、光をチラリと振り向く汀に「うん。やってみな」と頷く。  砂の型抜きを三段も重ねるのは、大人でも至難の業だ。初めは手を貸そうと思った。けれど、汀は型抜きに関して並々ならぬ矜持を持っている。それを光は知っている。だから、最小限のアドバイスに留めて、成り行きを見守ることにした。  バケツに汲んだ水と乾いた砂が、汀の脇に置かれている。砂の固さを適宜調節するためだ。光がアドバイスして、汀が自分で用意した。小さな身体で水を運び、砂の山を作って作業場を整えていた。  真剣な表情で汀が型に砂を詰める。固さを確かめ、水を足したり砂を足したりして湿り具合を整える。  頭で考えるのではなく感覚で調整しているのだろうが、初めのうちは足しすぎていた水や砂の量も、今はすっかり適量を覚え、型の中の砂は汀が求める固さになっている。迷いのない手の動きはすでに職人のようだ。  勢いよく型を返すと、衝撃で下の段が崩れる。その方法では上手くできないのだ。光は、下敷きを使って蓋をする方法を汀に教えた。砂を詰めた型に蓋をし、両手で端を押さて逆さにする。それを一段目の砂の上にそっと載せてから、下敷きをゆっくり抜くのだ。  一度やってみせた後、汀は一人で練習し、その技術に磨きをかけている。  そうして昨日は二段まで成功した。今も二段目まではうまくできていた。崩れている場所もなかった。  次はいよいよ三段目だ。  それにしても、ここまで高度な型抜きを習得した四歳児は、世界広しと言えども汀しかいないのはないだろうか。  そう考えると、光はひそかに誇らしくなった。  集中力を要する作業なので、公園には行かずに家の砂場で挑戦を続けていた。  立春を迎えたとはいえ、外の砂場で冷たい水を使いながら作業を続けるので、汀の両手は真赤だ。昨日の土曜日、一日その様子を見ていた清正は「誰に似たんだ」とやや呆れたように笑っていた。  数日前の節分で撒いた豆が庭に散らばっている。それを鳥が拾いに来る。  食べ物の少ないこの時期、鬼うち豆が生きものたちの貴重な食料になると教えたのは聡子だ。聡子の故郷の雪国では、秋にいくつか残された木の実も、この時期にはほとんど食べ尽くされている。雪が融け、草木が芽吹いて虫が動き出すまでの、あとほんの少しの期間、春を待つ命を鬼を祓った豆がつなぐ。  だから「鬼は外」は盛大に三回、「福は内」は控えめに二回。災いを祓えば福は小さくても十分幸せだからと言っていた。 「光、クルマ借りていいか」  テラスドアの陽だまりに立って、清正が聞く。 「いいよ。買い出し?」 「ああ。汀は忙しそうだから、俺一人で行ってくる。汀を頼むな」 「うん。行ってらっしゃい」 「昼までには戻る」  清正が出掛けてしまうと、青いベンチに座って修正案の描き出しに取り掛かった。黙々と作業を続ける汀の背中を見ながら、どら焼きが一つ冷凍してあるなと考える。集中が切れた頃に、解凍して食べさせてやろうと思った。  美味しいと評判なだけあって、『どら屋』のどら焼きは、あんこの甘さもほどよく豆の風味が豊かで、皮はしっとりして厚すぎず薄すぎず、実に絶妙だった。  しかも大きな栗が一つ、ずっしりと詰まったあんこの真ん中に入っている。驚いたことに、『どら屋』では栗入りが標準のようだ。清正がもらってきたものも、朱里がくれたものも、どちらも栗入りだったのである。  汀の様子を見ながら、光はスケッチブックに鉛筆を走らせる。集中して、それぞれの作業に没頭した。時間が豊かに過ぎてゆく。  水彩でデザイン画を着色していた光は、絵筆を洗うために立ち上がった。そろそろどら焼きの解凍をしておこうと思いながら、汀を見る。  汀はまさに今、三段目を載せようとしていた。下の段の砂の固さを真剣な目で確かめている。一番小さい丸型の中の砂は湿りすぎることなく、しっかり固められているようだ。下の二段も安定している。  今度はうまくいきそうだなと思いながら、テラスドアを開けて家の中に入った。

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