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第41話
レンジでどら焼きを半解凍にし、洗面所で筆を洗っていると、大きな声で汀が呼んだ。
「ひかゆちゃん。みてー!」
「成功か?」
「しぇーこーちたーっ!」
やったーっと叫びながら、家の中まで光を呼びに走ってくる。
「ついでだから、今のうちに手洗っとこう。どら焼きあるし」
「どややき?」
うひひ、と笑う汀の手にハンドソープを付け、冷たくなった赤い手を温かい湯で綺麗に洗った。タオルで手を拭かせてから、「どれどれ」とリビングを横切りテラスドアに向かった。
先に立って駆けてゆく汀が床の陽だまりを通り過ぎた時、レースのカーテン越しに人の影が揺れるのが見えた。
一瞬清正が帰ってきたのかと思ったが、玄関が空いた気配はなかったし、清正が庭から回ることは滅多にない。
慌てて汀に追いつき、その身体を抱き上げた。
「誰かいるのか?」
サンダルを履いてテラスに出る。
花の香りとは別の、濃い香水の匂いが漂ってきた。底に立つ思いがけない人物を見て、光は足を止めた。
「淳子、チーフ……」
「あら……。ええと、七原さんはいるかしら?」
なぜ家に松井が来るのだろう。眉をひそめると、貼り付いた笑顔のまま松井が言った。
「最近なかなか会えないし、近くに来たから寄ってみたのよ」
帰りの電車で時々会うと、確か清正も言っていた。それなら家が近いのかもしれないが、だからと言って訪ねてくるのは、やはりおかしい。
付き合っているという噂は誤解だった。清正は光のことで探りを入れていただけだと言っていた。それも、今はどうでもよくなっている。
松井の存在について、正直なところすっかり忘れていた。この家を訪ねてくる理由も、全く思い付かない。
井出の話を思い出し、清正を諦めきれずにストーカーにでもなったのかもしれないと考え、警戒心を抱いた。
「何の用で……」
光が松井に詰め寄りかけた時、突然、汀が泣き出した。
「……、う、あ、ぎゃああ」
「汀、どうした!」
「お、お、おしゅな……けーき、みぎわの、……っ、うわぁあん」
汀が指差す先を見て、光は息を止めた。
砂場の縁で三段ケーキが無残に崩れていた。
ひい……ひいい……っと、ひきつけでも起こしそうに呼吸を荒くして、汀が泣きじゃくる。
「汀……」
「おしゅな……、おしゅなが……」
抱きしめて背中を撫でてやるけれど、慰める言葉はなかった。「大丈夫だ」とも、「泣くな」とも、とても言う気になれない。
汀の苦しさと辛さは痛いほどよくわかる。
松井の靴を見て、光は怒鳴った。
「なんてことするんだよ!」
「何よ。私は、何も……」
「汀の砂を壊しただろう!」
「す、砂……? 何を言ってるの?」
「ここにあった砂のケーキだよ。おまえが壊したんだろう」
「え……?」
本気で混乱した様子で、松井はあたりを見回す。崩れた砂の山に気付いて、ようやく何を言っているのか理解したという顔をした。自分の靴を見下ろし顔をしかめた。
「嫌だ。靴が汚れて……」
その瞬間、光の怒りは限界を超えた。
汀から離れ、松尾の前に立つ。自分の目より少し高い位置にある、濃いつけ睫毛に囲まれた目。その目を、氷かナイフのようだと評される色素の薄い目で睨みつけた。
「ふざけるな……」
「な、何?」
光は、汀がどんなに頑張っていたかとか、壊されてどんな気持ちか考えろとか、そんなことが言いたいわけではなかった。
「あんた、自分が何したかわかってんのか?」
松井を睨んで、光は聞いた。本当の意味で自分のしたことを理解しているのか、聞きたかった。
ここにあったのは、汀が納得して完成させた砂のケーキだった。汀が魂を込めて作った「作品」だった。
ものを作る時、どんなに頑張ったかとかどんな工夫をしたかとか、過程を説明したり、努力を主張したりする必要はない。そんなものは全て、言い訳と似たようなものだと光は思っている。あるいは、ものを作ることそのものより、作った自分を褒められたいという承認欲求が、よけいなことを語らせる。
どんな努力をしたかは関係ないのだ。
どんなものが作れたか、結果だけが全てなのだ。少なくとももの作りに於いては。
出来上がったものがいいか悪いか、されだけ。黙ってそこに置かれたものが、よいものであればそれでいい。それが全て。
作り手は、ただよいと信じられるものができるまで、決して妥協してはいけない。それだけなのだ。
汀は、妥協していなかった。
頑張って作ったから少し端が崩れていてもいいとか、二段までできたからそれでいいとか、そんなことは一度も考えていなかった。
完璧で、どこにも欠けたところのない三段の型抜きを、ただ成功させたい一心で手を動かしていた。
そんなふうして完成した三段タワーの砂のケーキを、光は見たかった。
ただ見たかったのだ。きっと美しいに違いないと、信じていたから。
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