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第43話
和室に布団を敷いてやると、汀は泣きながら眠ってしまった。
汗で湿った髪を撫で清正が息を吐く。
「汀が泣くことなんか、滅多にないからな。何をされたのかと思った」
怪我をしたわけではなくてよかった。続いた言葉を聞いて、光は複雑な気持ちになった。
確かに怪我はしていない。怪我がなくてよかったという清正の言葉も理解できる。けれど、光は……。
「俺、汀が作ったケーキを見たかった」
布団の上から汀の足をそっと撫でて、唇を噛んだ。
「ほんとに、できてたんだ」
「また作ればいいさ」
清正の言葉に光の手が止まる。
「清正、それは違う」
違う、と繰り返して首を振った。
「清正は、もし汀を奪われても、また誰かに産んでもらえばいいと思えるか?」
「そんなわけないだろ!」
「それと同じなんだよ」
ものを作るということは……。
代わりはきかない。
自分の信じる最高の形に作り上げたものでも、壊れればそこで命が終わる。一点ものだとか量産品だとかは関係なく、そこに吹き込まれた命が形を失えば、みんな死ぬのだ。
絵も音楽も小説も詩も、同じ。雑貨のデザインや砂のケーキも。
命が歪められれば死んでしまう。次に作られるものは別の新しい命で、どんなに望んでも同じものは二度とこの世に現れない。
「ものを、ちゃんと作るってそういうことなんだよ。汀はそれをしたんだ」
清正の視線が汀の手に落ちる。
「そうか……」
ぎゅっと握ったまま布団の上に出ている丸い小さな拳を、愛しげに包んで清正は言った。
「俺も見たかったよ」
「うん」
ところでさ、と光は話を変えた。
先ほどから引っ掛かっていることがあるのだ。
「清正って、社長と会ったことあるの?」
「ああ」
「いつ?」
「おまえがデザインを盗まれたって言った時」
光の話を聞いて、清正はすぐに堂上に会いに行ったという。
「盗作が事実なら立派な犯罪だ。社長のあいつにも責任がある」
しかし、堂上は『証拠がないんだよねぇ』と言ったらしい。すでに光から話を聞いていて、その内容を信じると言いながら、証拠がないから動けないと肩を落とした。
『残念だが、絶対言い逃れができない何かを見つけない限り、松井くんは認めないだろう』
そう堂上は言ったそうだ。
つまり、証拠さえ見つければ罪に問う用意がある。そう匂わせて、清正に、その証拠を見つけてこいと言ったようなものだ。
堂上のやりそうなことである。
「あの人、悪魔みたいに人を使うのがうまいからな」
使える人間は誰彼構わず使い倒す。しかも、本人も気付かないうちに、自分の意思で動いていると思わせて。
「だけど、よくアポなしで会えたな」
人使いの荒い堂上だが、それ以上に自分がよく働く男なのだ。社内にいることは珍しく、いるとしても、たいていはいなければならない理由がある。忙しくないことは稀で、急な面会がすんなり通る相手では、決してないのだが……。
「名前を言っただけで、会うって即答されたぞ」
「マジか」
なぜだろう。
「俺が、おまえにとって重要な人間だからだとさ。コンペみたいのがあるんだろ? そこでおまえに最高のものを作らせたいからだ、とかなんとか言ってた。コンペと俺がどう関係あるのか、さっぱりわからないけどな」
ところで、と清正は急に不機嫌そうな顔になった。
「光、あいつに口説かれたことがあるんだって?」
「え……? あ……」
うん、としぶしぶ頷く。
「なんで黙ってた」
「だって、言うほどのことじゃないし……。てゆうか、おまえ、社長と何の話してんだよ」
「どう口説かれたのか教えろ」
「え。いいじゃん、そんなの」
そんな恥ずかしいこと言いたくないと口を尖らせるが、清正は執拗だった。
「お、し、え、ろ」
ずいと迫られて、早々に降参する。たいした話ではないのだ。
「恋人になってくれないかってストレートに言われただけだよ……。速攻で無理って答えたし、すぐに社長も引いたし、それで終わり」
「本当にそれだけか」
「本当にそれだけだよ」
清正はぶつぶつと「なんだよ。あの野郎、思わせぶりなこと言いやがって」と呟いている。何を言われたのかと聞けば、いろいろだと答えて口をへの字に曲げる。
「光をどう思っているのかとか、このままでいいのかとか、どこのお節介野郎だよって引くようなことを聞いてきて、俺が何もしないなら自分がどうにかしそうなことを匂わせた」
「なんだそれ」
「あと、こんなことも言ってた」
――『光が隠している一番綺麗なものを、見たくないか?』
「俺が隠してる、一番綺麗なもの?」
「何を言ってるのかわからなかったけど、その一番綺麗なものとやらを、あいつは知ってるような口ぶりだった。それをあいつにだけ見せるわけにはいかないだろ」
一瞬、しんとなった後で清正が「ヤバイな」と右手で自分の口元を覆った。
「想像したら、鼻血が出そうに」
「バカか」
布団の上に乗り出して、頭を叩く。
清正は、それからもしつこく「堂上はまだ光を狙っているのではないか」と繰り返した。
「ないと思うよ」
「なんでだよ? 根拠はあるのか」
んー、と首を傾げてから、「想像なんだけど」と断って理由を口にする。
「さっき社長、出先だって言ってただろ? 場所、どこか言ってた?」
「秩父のなんとか工房って言ってたな」
「じゃあ、やっぱりそうだよ」
堂上には決まった相手がいるのだと、笑ってみせる。
「秩父にいるのか? 恋人が? 男か?」
「秘密」
教えろ、とうるさいので、ただの勘だと繰り返して、理由を言った。
村山の事務所に行くと、時々堂上の香水の残り香があるのだ。村山自身から香ることもある。
ただの取引先にしてはずいぶん親しいと感じていたが、二人が特別な関係だと考えると、いろいろ腑に落ちる。残り香はいつも、休みの日かその翌日に香っていた。
「匂いって……。おまえ、前からそんなに鼻よかったか? 盗作改竄女の時もやけに匂い匂いって言ってたぞ」
「鼻がいいわけじゃないよ。少し前に香水瓶の仕事があって、有名な香水の香りと瓶のデザインと、あとネーミングなんかを調べたんだよ。それでちょっと詳しくなっただけ」
光のまわりでふだんから香水付けてるのはあの二人だけなので、自然と嗅ぎ分けられるようになったのだと付け加えた。
なるほど、と清正は感心して頷いた。
「おまえ、人が知ってること知らないわりに、仕事絡みになるとやけに詳しくなるもんな」
「褒めてるのかけなしてるのかどっちかにしろよ」
「褒めてるよ」
汀の足元に置いた手を握って清正は笑った。
「俺も何かつけてみようかな」
「なんで?」
「おまえから俺の匂いがしたら、嬉しいし」
「やっぱり、おまえバカ」
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