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第44話

 昼になる少し前に汀は目を覚ました。黙って撫でてやると、にこりと嬉しそうに笑ったのでほっとする。  清正が作ったうどんを三人で食べる。天ぷらの野菜なら汀も好きらしい。 「みぎわ、にんじんしゅき」 「甘いもんな」  食後に、一つしかないどら焼きを三つに分けて食べた。汀がそうしたがったからだ。 「くいも、わけっこすゆ」 「栗は汀が食べろよ」 「汀、栗好きだろ」  清正と二人で「食べていいよ」と笑うと、汀は頬を赤く光らせて嬉しそうに頷いた。  まわりのあんを全部舐めてから、大きな黄色い粒をゆっくり口に入れて味わっている。「至福」という言葉の意味を表すような、何とも微笑ましい表情だ。  午後になると、汀は絵を描き始めた。  もう砂のケーキを作ろうとはしない。興味を失ったのか、傷ついているのかはわからない。絵を描くことに飽きると、それからはずっと水族館で買ってきたシールブックを広げて大人しく遊んでいた。  清正は一週間分の食事の支度にかかり、光は銀細工で葉の部分を作り始めた。  花を作り終わったわけではない。まだまだたくさん作る必要がある。けれど、ほかのことに気を取られながら作るには、花の部分は細工が細かすぎる。集中して取り組みたい気持ちがあった。  昼間のうちは比較的楽な葉を作る作業に当て、夜、一人になった時間に花を作る。  それぞれに自分のことをしながら、馴染んだ日常がゆっくりと過ぎていった。  清正と汀と光、ずっと昔からここに三人で住んでいて、これから先も、ずっとこうして生きてゆくのだと信じたくなるような、ありふれて幸福な時間が流れてゆく。  それでも、やはりこれは仮の生活なのだ。  汀を保育所に送った後、自分のマンションや清正のマンションに寄る度に、それを考える。  これから先、いつどのようなタイミングで光は元の暮らしに戻るのだろう。何をきっかけに、戻ればいいのだろう。いつか訪れるその日を、光はどんな気持ちで迎えるのだろう。  平日の朝は、相変わらず三人で電車に乗っていた。乗り換え駅で汀を保育所に送ると十分ほどかかかる。その十分が、朝は大きいのだと清正が言い、ならば光が一緒に行く意味も少しはあるのかと考えて、その習慣を続けていた。  出かけたついでに依頼仕事を自宅で片付け、午後になると早い時間に汀を迎えに行くのが日課になった。  帰宅後は公園に連れてゆき、夕方には食事と風呂を済ませて早目に汀を寝かしつける。  清正の帰宅時間が遅いので、帰りを待つ間、光は小さな花を造り続けた。  花の数が一定数揃うと、数やバランスを見ながらデザインの微調整をする。一つ一つの花の造形はアンジェラを模して造った。  零れるように咲く五月の薔薇。  帰宅すると、清正は必ず光にキスをした。少し早い時間に帰れた日には、肌を暴かれて赤い痕を刻まれた。  互いの昂ぶりに触れることも教えられ、指先で辿った清正の硬い熱の感触や、自分のものを長い指で包まれた時の、どうにかなってしまいそうな苦しさも知った。  それでも、清正の前でその疼きを解放することはできずにいた。達したいのにそれができない、もどかしい夜を繰り返した。   キスをして、互いの身体を触る。  それがこんなにも甘い歓びを伴うものだったのかと、日々知ってゆく。  清正の唇や指に触れてほしくて、もっと近くに身体を感じたくて、けれど、これ以上何をどうすればいいのかが、光にはわからなかった。  何もわからないのに、清正に触れていたかった。  翌週の土曜日は第二土曜日で、汀と朱里の面会日だった。  本来、朱里が汀に会えるのは月に一度で、汀の誕生日に会っている二人は、清正が拒めば会えない決まりだ。  これまでルールを曲げなかった清正だが、この日は朱里が汀に会うことを快く許した。  それだけではない。迎えに行った駅で、カフェにも立ち寄ったらしい。  清正と朱里が一緒に店に入り、ゆっくり話をしたのが珍しかったのか、帰宅した汀が嬉しそうに教えてくれた。 「みぎわ、おえんじじゅーちゅ、のんらの」  興奮して話す汀の横で「汀のリュック、朱里が喜んでたぞ」と、清正もなんでもない口調で言った。  朱里と汀の面会に関して、以前の清正は、もっと神経を尖らせていた気がする。それがどういう心境の変化か、急にリラックスした態度で、二人を会わせるようになった。朱里の名前をさらりと口にしたことにも驚いた。清正の口からその名を聞くのは、もしかすると初めてかもしれない。そのくらい、朱里の存在は清正たちの暮らしと遠いところにあった。  これまでは。  幼い子どもは母親と暮らすものという印象が、どうしてもある。朱里が汀を欲しがり、汀も母親を求めたら、清正は苦しんだに違いない。汀を手放すことも、汀から母親を奪うことも、清正には辛いことのはずだ。  だから、ひどいとわかっていても、汀が朱里に懐かないように、できるだけ遠いところに朱里を置いたのだと思っていた。  月に一度というルールを一度でも破れば、なしくずしに二人は会うようになるかもしれない。最初の約束は決して破りたくない。光には清正がそう考えているように見えた。汀の心の中で朱里の存在が大きくならないように、どこか張りつめたような厳しさで、ルールを守り続けているような気がしていた。  その張り詰めた気配が、今の清正にはなかった。清正と汀と朱里、三人の中のバランスに何か変化があったのだと思った。  汀が朱里に懐いてもいいと思えるような、大きな変化が。  

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