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第48話

 抱き合うことは気持ちいい。  キスも気持ちいい。  覚えたばかりの蜜の味は甘く、清正への恋を自覚した光は、心の中に薔薇が咲き乱れるような、ふわふわと落ち着かない気分になっていた。  自宅マンションや清正たちのマンションに寄り、軽く空気を入れ替えたり、軽く掃除をする時だけは、小さな不安が顔を覗かせる。  この先どうするのか、いずれ決めなくてはならない。  できればこのまま清正や汀と一緒にいたい。光はそう思い始めていた。ずっと……。  それでも「ずっと」と考える度に、うまく言葉にできない不安が心の片隅に残っているのを感じた。「ずっと」と「永遠」の長さの違いを、恐れた。  銀細工の花を作りながら、長い間、眠り続けていた「秘密」に思いをはせる。  名前を付けなければ、ないものとして扱える。  ないものなら、壊れることも失うこともない。  そう信じて心の奥に封じてきた想い。けれど、名前などなくても、生まれた時からずっとそこに封じられていても、その想いは、消えることも小さくなることもなく、光が目を向ける時を待ち続けていた。  ないものとして見ないふりをしても、どんなに厳重に閉じ込めても、辛抱強くそこにあり続け、扉を開けた瞬間まばゆいほどの光を放って溢れ出してきた。  光の――「恋」。  薔薇の下に隠し続けた「秘密」。  通常の依頼仕事をいくつか終わらせ、花の仕上げにかかる。  茎と葉と、たくさんの花。薄い銀で精密に作られたそれらを、デザインを調整しながら組み合わせてゆく。  一度形になったものをさまざまな角度や距離から眺めた。  上品でバランスのいい仕上がりになっている。計算通りにできていたし、満足のいく完成度だった。  けれど、光はそれを少し崩してみた。  整った形状を崩すことで、頭の中で考えたものとは別の表情が生まれる。それを何度も確かめ、やがて小さく頷いた。 「もっとたくさん……」  零れるように、もっともっとたくさんの花を、あしらってもいい。  重みを感じるほど膨大な量の花が、五月の庭には咲いていた。何重にも重なる花と花、みっしりとした厚み、濃厚な質感と、それでいて軽やかで優しい……。  どんなにたくさん集まって咲いても、花はその重さを人に感じさせない。枝がしなるほどの質量があっても、軽やかで、ただ零れるようで……。  どんなに強い存在感があっても、でしゃばらない。重さの中に軽やかさがあり、凄みの中にも清々しさや可憐さがあった。  もっとたくさん、狂うほど咲き乱れる花が欲しい。  何もかも覆い尽くし、そこに隠して守ってくれるほど、咲き乱れる花が……。  週末のうちに村山に届けたかったが、さらに多くの花が必要になってしまった。光は作業を続けた。一つ一つ丁寧に小さな花を造りながら、時間と闘った。  汀を寝かしつけ、夜の作業をしていると清正が帰ってくる。 「清正、汀って、今度の土日、何か用事ある?」  遊びに連れてよういくなら夜のうち作業を進めたい。そう思って確認すると、土曜日は朱里と出かける予定だと清正が答えた。  光は顔を上げた。 「また?」  今月はこれで三回目だ。いいのか、と聞きたくなった。  朱里との面会は月に一度。離婚の際に清正と朱里がそう取り決めた。その約束に、光が口を挟むのはおかしい。それでも、今までそんなことは一度もなかったのではないか。そう思うと、そこに現れた変化が、気になった。 「今月、三回目だよな」 「ああ。でも、まあ……。汀も喜んでるし、いいだろ」 「そっか」  清正がいいなら、光が言うことは何もない。  汀はまだ四歳だ。そんなに小さいのに母親と離れて暮らしているのだ。清正がいいと納得して、朱里の事情も許すなら、汀が望むだけ母親に甘えさせてあげたいと、光も思う。  朱里も嬉しいはずだ。  不器用な刺繍が、一瞬瞼に浮かんだ。  開発の部署に戻った清正は毎日仕事が忙しいらしく、帰宅時間が深夜になることも珍しくなかった。週の半分ほどは、起きている汀に会えない。  清正に抱かれて達した日から、数日が経った。ゆっくり話す時間も持てないまま、再び肌を触れ合う時間も訪れることはなかった。  あの夜の熱を思い出し、光は唇を噛んだ。もっと触れ合いたいと思っている自分に気付いて、落ち着かない気持ちになる。  清正に触れたい。  抱き合って、またあんなふうに気持ちよくなりたい。  清正の唇や指の感触を求めて、それが足りない今を寂しいと思った。こんなことばかり考える自分は、少しおかしいのではないかと心配になりながら……。  好きだと思うだけで、胸に甘い痛みが満ちた。  清正を失えば生きられない。ずっと思っていた。  光を守り、甘やかしてくれる手。その手に光は依存している。清正なしではまともに生きることもままならない。  生活していく上で助けられている。それだけではなかった。  清正の存在は光の一番深い部分に、根を下ろしている。光が生まれ、生きてきた意味として。  それを失えば、光は全部ばらばらに壊れてしまうだろう。  きっと生きられない。  それが怖くて、だから、どこか息を詰めて、怯えるようにバランスを保って隠してきた。その想いと、胸に満ちる甘い痛みは重なる。  その痛みも、封じてきた想いも、同じ名前を持っていた。  ――『恋』。  その名を、一枚一枚小さな花びらに託してゆく。  清正への光の想いが花になる。  数十枚の花びらで作る小さな花、それを数百集めて、五月の薔薇のモチーフを完成させていった。  土曜日、汀は新しいリュックに着替えとタオルとおやつを詰め、朱里の待つ駅へと出かけていった。送り届けた足で買い物をしてきた清正は、帰ってくるとそのままキッチンで一週間分の作り置きメニューを作り始めた。 「光」  和室で黙々と作業する光に、キッチンから話しかけてくる。 「俺、今のマンション解約して、ここに住もうかと思う」 「そっか」  どうするのだろうと思っていたので、清正の答えを聞くと光は安心した。これで、この家を聡子が手放すことはなくなるだろう。 「いつ?」 「不動産屋に電話したら、二月中に部屋を空けるなら、すぐに解約の手続きをするって言ってた。一ヶ月分の前払い家賃も半分でいいからって。三月は人の移動が多いからな」  二月中に家が空くのは、都合がいいらしかった。 「おふくろも、あったかくなったら荷物を運ぶって言ってたし。いつまでも二か所に荷物置いといてもな……。光に掃除に行ってもらってるのも」 「俺のことは別にいいけど」  朝、汀の保育所に送ったついでに、時々、自分のマンションと清正のマンションを巡回するだけだ。薔薇企画に行く用事がある時や、汀の迎えの前の、ちょうどいい時間調整になっている。  そう言うと「そうか」と頷いて、エプロンで手を拭きながら清正がそばまで来て座った。  光が造る花を見て「細かいな」と感心する。 「それでさ、おまえ、どうする?」 「どうするって?」 「今のマンション、事務所を兼ねてるんだろ? 仕事の道具なんかはほとんど向こうに置いてあるんだよな」 「うん。使うものだけちょこちょこ運んだり、向こうで作業したりしてるけど」  じっと黒い目が覗き込む。  右手で光の頬に触れ「ちょっと、考えておけよ」と囁いた。  立ち上がりかけた清正が、思い出したようにかがみこんでキスをする。ふいを突かれて心臓が跳ねた。  唇を舐められて甘い疼きがじわりと生まれた。もっと、とねだるように自分から舌を差し出すと、凶暴なほど深いキスに変わって、喉の奥まで犯される。 「んっ……」  清正のシャツをくしゃっと掴む。ぎゅっと、息が止まるかと思うくらい、きつく抱きしめられた。 「ああ……、早くあっちからも入りてぇ……」 「あっち……?」  あっちって、どっちだ? 軽く眉をひそめると、清正が笑う。 「あっち。めちゃくちゃ奥まで、入りたい」  そのまま押し倒されかけたところで、「ピー!」とやかんの音が、何かの終了を知らせた。

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