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第51話

 工房を二つ回り終えた後、少し早いが、そのままクルマを走らせて汀を迎えに行った。  保育所のある階までエレベーターで昇り、無言の会釈で汀を引き取る。まだ昼寝の時間になっていなかったのだが、無言でのやり取りが習慣になってしまって、何を言っていいのかわからなかったのだ。  エレベーターに乗り込むと汀が聞いてきた。 「ひかゆちゃん、よいおもろしゅってなあに?」  よいお……? なんだろう。   なんと言ったのか上手く聞き取れなくて、汀を見下ろす。 「ん? 何? もう一回言ってみ」 「よいお、もろしゅ」 「ヨイオ、モロシュ?」  光は眉間に皺を寄せた。  全く見当がつかない。そもそも何語なのかもわからない。  「誰が言ってたんだ? その『ヨイオ、モロシュ』って」 「ほいくしょの、しぇんしぇーたち。みぎわに、ゆったの。パパとママ、よいおもろちてよかったねって」 「パパと、ママ……?」  パパとは清正のことだろうが、ママは誰のことを言っているのだろう。朱里が汀の保育所に行く機会があったとは思えない。  ヨイオモロシュ、ともう一度口の中で繰り返してみる。  ヨイオ、モロチテ、ヨカッタネ。  ふいに言葉が形を結んだ。  ――よりを戻してよかったね。 「汀……?」  どういうことだろう。 「先生たち、汀に言ったのか? パパとママがよりを戻してよかったねって……」 「うん」 「ほかの子に言ったんじゃなくて?」 「みぎわにゆったの。しゃっき。よかったねーって」  にこにこしながら、汀が見上げてくる。光は何が何だかわからないまま「そうか……」とだけ答えて頷いた。  よく、意味が分からない。  駅につながる大きな陸橋を渡り、地下駐車場に停めたクルマに向かいながら、光は頭の中で懸命に言葉の意味を掴もうとした。  パパとママがよりを戻して……。  清正と、誰が? よりを戻すというのは何を意味する?  清正と……。相手は一人しかいない。汀がママと呼ぶ人も一人しかいない。  「よりを戻す」という言葉が頭の中をぐるぐる回転した。  今朝、清正は一人で汀を送り届けた。その時に保育所の職員と何か話しをしたのだろうか。  キラリと、記憶の底で何かが光った。白く細い指にはめられたダイヤモンドの輝き。  それから徐々に、いろいろなことが頭に浮かんできた。  朱里と汀の面会が増えたこと、迎えに行った時、清正と朱里がどこかの店に入って話をするようになったこと、清正が今の仕事に戻ったこと。それから……。  上沢の家で暮らすと決めたこと。  それらのことが、汀の言葉と重なり合うようにして輪郭を結び始める。  よりを戻す……。清正と、朱里が。  保育所での出来事をあれこれ話し続ける汀に、上の空で相槌を打ち、小さな身体を抱き上げてチャイルドシートに乗せた。機械的にいつもの動作を続けながら、頭の中はフリーズしたまま同じ場所でぐるぐる回っていた。  よりを戻す、よりを戻す、よりを戻す……。  そんなはずはない。  光は自分に言い聞かせていた。清正は光に「好きだ」と言った。毎日キスをして、抱きしめて、時々身体中に唇や指で触れる。  たった一度だけれど、抱き合ったまま一緒に熱いものを迸らせた。  吐き出した瞬間の、清正の顔を光は見たのだ。  目を閉じて、満ち足りた顔で小さく吐息を吐いていた。額に汗を浮かべて。  あんな無防備で淫靡な顔を、清正は光に見せたのだ。  あの顔は光だけのものだ……。  必死でそんなことを考えていた光の背筋に、ふいに冷たいものがひやりと走り抜けた。 (違う……)  光だけではない。あの淫らで美しい顔を見たのは、きっと、光一人ではないのだ。  何年も女性の影がなかったから忘れていたけれど、清正はかつて次々に付き合う相手を変えていた。汀という子どもを残しているくらいだ。その付き合い方は、大人同士のものだったに違いない。  光の知らないところで、光の知らない誰かが、清正の無防備な顔を見ていたのだ。  ずっと、離れた場所から清正の彼女たちを見てきた。清正に近付き、手に入れたと思ってはしゃぎ、やがてあっけなく忘れられるたくさんの女性たちを。  よく考えると清正はひどい男だ。  けれど、清正がひどい男であることに、光はずっと安心していた。清正が誰のものにもならないことに、安心していた。  けれど。  実際には清正を手に入れた人が、一人だけいた。清正に望まれて妻になり、汀を生んで、やがて自分から清正の元を去った人が……。  朱里の穏やかな笑顔が瞼に浮かび、汀の服に縫い取られた拙い文字がそこに重なる。  その文字を見た日のことがよみがえり、その日と同じようにわけもなく泣きたい気分になった。  敵うわけがない。  清正はどんなつもりで光に触れたのだろう。好きだと言った言葉に、どんな意味があったのだろう。  頭も心も混乱し続けていた。  清正に近付いては離れていった人たちと、光はどこが違うのだろう。  朱里以外の人間は皆、同じなのかもしれない。光も、彼女たちも、変わらない存在なのだ。  みんな清正の前からいなくなった。  光もいつか、清正や汀の人生からいなくなる。  そう思うと、これから何をどうすればいいのか、全部が、何もわからなくなった。

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