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第54話

 水曜日の夕方に聡子は上沢の家に到着した。約一カ月ぶりの自宅を一通り見て回り、満足そうに微笑んだ。  「家の中が、すごく綺麗。お庭もちゃんと手入れしてくれてるし、嬉しいわ。さすが光くんね。どうもありがとう」  清正だけでは、とてもこうはいかない。そう言って、手放しで光をねぎらった。  運ぶ荷物を確認するため、家の中を回っていた聡子に汀が手を伸ばす。 「サトちゃん」 「汀もいい子にしてた?」 「いいこ、ちてた」  抱き上げられてきゃあっと声をあげて笑う。聡子が汀と頬を擦り合わせる。 「ちょっと会わない間に重くなったわねえ」 「みぎわ、よんしゃい」 「そうだったわね。いいものあげようか」  汀を下ろした聡子が、テーブルに置いた紙袋から「からから煎餅」と書かれた袋を取り出した。 「おやちゅ」 「中におもちゃが入ってるのよ」  汀の顔がぱっと輝く。フォーチュンクッキーと同じ仕組みの、甘い素焼き煎餅の中に小さなおもちゃを仕込んだ庄内土産だ。  ダイニングテーブルで一つそれを食べた汀は、中から出てきた紙の傘に満足し、にこにこしながら椅子から降りた。 「サトちゃん、こっち」  聡子の手をぐいぐい引っ張る。 「りゅっくとおしゃかなのおにんぎょー、あゆの」 「あら。ステキ。じゃあ、見せてもらおうかしら」  自慢の品を披露するために、汀が聡子の手を引いて自分の荷物を置いたロッカーに向かう。二人がリビングに落ち着くと、光は食事の準備に取り掛かった。準備と言っても、清正が作り置いた夕食をレンジで温め直すだけだ。  テーブルに皿を並べて二人を呼ぶ。 「清正ったら、本当になんでも上手にやるわね」  清正の料理を口似た聡子は「私が作るより、よほど美味しい」と笑った。 「自分の息子ながら、ほんとに器用。驚くわ」  むしろ少し呆れたように眉を上げてみせる。その顔は、どこかほっとしているようにも見えた。 「仕事も、前の部署に戻ったみたいね」 「ええ」 「やっと気持ちがはっきりしてきたのかしらね。最近、声にもなんだか張りがあるし」  以前、『清正は本当にやりたいことをやれているのだろうか』と心配を口にしていた聡子は、最近の清正の変化を嬉しく思っているようだ。急にいろいろなことに前向きになったと言って嬉しそうに微笑む。 「ここにも住んでくれるって言うし、本当に嬉しい。それに朱里さんとやり直すんでしょ? 汀にとってはそれが一番いいことだもの」  にこにこと続けられた言葉に、光は箸を持つ手を止めた。 「やり直す……?」 「ええ。なんだかよりを戻したんですって? お互い、嫌なところがあって別れたわけじゃなかったみたいだし、やり直せるなら早いほうがいいわよ。だけど、同じ人と再婚する時って何て言うのかしらね。復縁でいいのかしら?」  幸せそうに話し続ける聡子の顔が、どこか遠い画面の中の人のように見えた。  やり直す、という言葉だけが頭の中を何度も行き来する。視界がぐにゃりと歪んできた。 「どうしたの、光くん?」 「あ、なんか、ワサビが……」   席を立って背中を向けると、ぐしゅりと鼻をかんだ。手の甲で涙を拭く。  ちゃんと、汀の言った通りだったじゃないか。  心で呟いて、自分の浅はかさを嗤った。また涙が零れ落ちて、緩い涙腺を情けなく思った。 「花粉かも……」  ぐしゃぐしゃの顔をごまかしてリビングから逃げる。  清正がいけないのだ。光を甘やかすから。  だから、いつまでたっても涙腺が緩くて、すぐに泣いてしまう。いい大人になっても、光が泣くことを許す。みんな清正のせいだと、泣きながら思った。  よりを戻して、朱里と汀と三人でここに住むために、清正はマンションを解約するのだ。どうするか考えておけと言われて、光は何を考えていたのだろう。  ここに来いと言ってくれたのだと、すっかり勘違いしていた。  棚に片付けられた汀のリュックが目に入る。古いリュックの代わりに汀の背中で揺れる、光が作った青いリュック。  そのリュックと同じように、光は朱里のいた場所に収まるつもりでいたのだろうか。  汀の誕生日にしたほんの小さな遠慮を思い出し、恥ずかしくなった。汀の母親代わりになれるかもしれないと、どこかで光は思っていた。バカな思い上がりだ。  敵わないと、初めから知っていたくせに。  汀の母親も、清正の妻も、朱里しかいないと知っていたくせに。  聡子の引っ越しは「お任せパック」というタイプで、運んで欲しいものを指示すればスタッフが梱包してくれるというものだった。  光が手伝うことは何もなく、邪魔にならないように作業の様子を見ているしかなかった。  木曜日に荷物を詰めて出発し、金曜日の朝には山形で荷解きをしながらそれぞれの場所に片付けてくれるという。ありがたいシステムだ。  夕方帰宅した清正は、同じ引っ越し業者の「お急ぎパック」なるものを予約した。日曜の午後には作業に来てくれるらしい。  これで二月中にマンションの解約ができる。  全てがトントン拍子。話が綺麗にまとまってゆく。  それを横で見ながら、物事の流れというのはこういうものなのだと光は思った。目に見えない力が背中を押ししてくれる。  清正と朱里の復縁を、光以外の全部の力が応援しているのだ。  荷解きに立ち合うために、引っ越しのトラックが出てしまうと、聡子も山形に向かう。上沢の駅まで送ると清正が言い、なぜか光も連れ出され、汀と三人で改札を抜ける聡子に手を振った。  その帰り道、並んで歩きながら清正が言った。 「光の荷物もさっさと運べよ」  光は急に歩けなくなった。  先を行く清正と汀が、体験保育に行った幼稚園の前で園庭を指差して何か話している。街灯の下で、清正の言葉に汀がにこにこ笑って何度も頷いていた。嬉しそうに、何度もぴょんぴょん跳ねる。 「どうした、光。早く来いよ」 「ひかゆちゃん、みぎわと、よぉちえん……」  離れて立つ二人に笑おうとして顔が歪んだ。  ようやく一歩足を踏み出すと、今度は急に全速力で走りたくなった。驚いている二人を追い越して、逃げるように走る。  先に上沢の家に辿り着くと、和室に置いていた仕事道具の収納箱をテラスドアから外に出した。それをクルマに積み、二階に上がってクロゼットの中身をかき集めると、旅行用のトランクに詰め込んだ。  荷物はそれで全部だった。  ひと月余りの仮の住まいに、光のいた痕跡は残らない。これから始まる家族の時間を邪魔するものは何も残らない。  トランクを下げて階段を降りていると、清正が目の前に立った。慌てて帰ってきたらしく、息が荒い。 「光、何してるんだ」 「荷物、運ぶ」 「運ぶって……」 「マンションに、帰る」  呆然とする清正の横を通り抜け、玄関に向かう。清正の横でじっと見上げていた汀が、光を追いかけてきた。 「ひかゆちゃん!」  玄関に降りて靴を履く光の長くなった髪を掴む。 「ひかゆちゃん、ろこいくの」 「家に帰るだけだよ」 「おうち、ここ」 「違う。俺の家はここじゃない」  汀が首を振る。 「ひかゆちゃん、おうち! ここ!」  ふだん聞き分けのないことを言わない汀が、足をどんどん踏み鳴らして「ここ!」と繰り返す。背中を向けたまま何も答えない光に「うわあん」と声を上げて泣き出した。 「汀……」  思わず振り向いて、小さな身体を抱きしめた。 「ひかゆちゃん、ここ、おうち!」  許されるなら、光もずっとここにいたい。清正と汀と三人で、いつまででも暮らしていたい。  けれど、無理だ。  もっと二人に相応しい人が、ここに来るのだから。今は泣いていても、汀にとって本当に幸せな暮らしが、すぐにやってくる。 「どうしてだよ」  清正が框の前に立つ。どうしてと聞かれる意味がわからなかった。清正こそ、どうしてそんなことが聞けるのだろうと思った。 「そんなの、清正が一番わかってるだろ」 「俺が……?」  自分のせいなのかと、驚いたように目を見開く。その目を見たら無性に腹が立った。 「当たり前だ、バカ!」  怒鳴った途端、涙が零れた。それを隠すように玄関を飛び出し、力任せにドアを閉めた。スーツケースをクルマに投げ込む。乱暴にエンジンをかけた。  月のない夜だった。玄関から漏れる明かりを横目に見ながらアクセルを踏む。四角く切り取られた光の中の二つの影がぼんやり浮かんだ。歪んだ視界の中、スピードを上げると、その光と影はどこかに流れて消えてしまった。

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