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第55話
少し広目の1K。大学を卒業してから五年も暮らしてきたマンションに、光は久しぶりに戻った。毎日のように行き来して、ものを運んだりここで作業をしたりしていたのだから、久しぶりではないはずだ。なのに、改めて「戻ってきた」のだと思うと、五年も住んでいたはずなのに、自分の家はどこかよそよそしく感じて落ち着かなかった。
必要なものは全部揃っている。なのに、足りないものがたくさんある。
庭を訪れる鳥の気配や、風に揺れる葉の音、自分以外の人間が立てる細かな生活音。
光を呼ぶ汀の声、清正の声。優しい目と長い腕と広くて温かい胸と……。光に触れる指先と唇……。
全部足りない。
一人が寂しいなんて思ったことはなかったのに、一人でいると何をしていいのかわからなくなった。何をしても楽しくなかった。
生きていることが、ふいに無意味に思えてくる。そうかといって死にたいわけでもない。
ただ漫然と決まった暮らしの手順を繰り返し、カレンダーに書かれた仕事の予定だけを追いかけるようにして過ごした。
中身のない薄っぺらな時間は、風に飛ばされるスーパーの買い物袋のように呆気なくどこかへ流れ去ってゆく。
仕事の依頼は次々来るので、それに没頭している間は無心で手を動かしていればよかった。
期日が来れば依頼されたデザインを納品する。次の仕事も、その次の仕事も、同じ熱量で淡々とこなし、手を抜いたつもりはなかったけれど、そうして作ったものがいいものだったのかダメだったのか、光にはわからなかった。
コンペの作品を提出したはずだったが、いつ出したのか、あるいは出さなかったのか、記憶が曖昧で、これもよくわからなくなっていた。
光の中にあった一番綺麗なもの、一番美しいものを形にしたはずだった。
なのに、あれは誰のために、何のためにあったのか考えると、それもまたわからなくなるのだった。
光の真ん中でいつもキラキラしていた五月の庭、零れるように咲いていた薔薇の花。それがみんな散ってしまったかのような、空っぽの数週間が過ぎていった。
もう清正や汀には会えないのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えて、そうすると何も考えられなくなった。いつの間にか三月になり、その三月も半分が過ぎようとしていた。
春の気配が光を包んでも、心は何も感じることがなかった。
そんなある日、光のスマホに清正の名前が表示された。
ラインやショートメールではなく、音声電話の着信だ。
心臓がドキリと跳ねて、少しの間出ることができなかった。何を話せばいいのか、何か話せるのか、考えると怖かった。
それでも、清正の声が聞きたかった。
「……もしもし」
『光か!』
切羽詰まった声が耳に飛び込んできて、何かあったのだと思った。
「どうかしたのか?」
『汀がそっちに行っていないか』
「汀?」
来てない、と答える間に心臓が早鐘のように打ち始める。
汀がどうして?
「だって、一人で来られるわけないだろ。どうした? 何があった?」
『汀が、いなくなった』
絞り出すように清正が言った。
『今、保育所から連絡があったんだ。汀が来てないって』
時計を見ると十時を回ったところだった。
清正が短く説明する。保育所に送ったのは八時過ぎで、いつものように込み合うエレベーター前で手を振って別れた。けれど、その後、汀は保育所の中に入っていかなかったらしい。
そんなことが、と思うけれど、エレベーター前から入り口までのわずかな距離を、汀はいつも一人で移動していた。混み合う時間帯で、ほかの子どもたちの後ろに並んでいる姿を見て、光も清正もその場を離れてしまっていた。中に入るのを確認せずに。
何の連絡もなしに汀が休むことは今まで一度もなく、毎朝保育所に顔を見せる時間もほぼ決まっている。
時間を過ぎても姿を見せない汀のことを、職員は気にしていたようだ。けれど、もう少しすれば来るかもしれない、あるいは連絡があるかもしれないと、頭の隅で考えながら、次々にやってくる子どもたちを忙しく迎えていた。
朝の通所ラッシュが一段落した時、汀がまだ来ていないことに改めて気付き、誰も連絡を受けていないことを確認すると、慌てて清正に連絡したという。
それが十時。
『職員さんたちの中で、外に出られる人が手分けして探してくれている』
清正の声を聞きながら、だけど、あのあたりには小さい子どもが一人で入れるような建物はないはずだと思った。
『交番やビルの警備室にも聞いてもらっているが、迷子らしき子どもを見たという情報は、今のところないらしい』
「清正、おまえ今、どこにいるんだ?」
近くにいるならすぐに探しに行けと言うつもりだった。
しかし、清正はかすれる声で『新幹線の中だ』と答えた。日帰り出張で大阪に向かっていると苦しげに言う。
『名古屋で折り返す。俺が帰るまでの間、わかる範囲でいいから汀を探してくれないか。おまえにも仕事があるだろうけど、頼む……!』
「わかった」
『もう一度、保育所の近くにいないか聞いてみて、いなかったら上沢の家のほうを当たってくれ。向こうに帰ろうとしたのかもしれないから』
「うん。念のため、前のマンションも見てくる」
『悪い。頼む……』
「何かあったら連絡する。すぐ出られるようにしといてくれ」
わかったと力なく答えて、清正は通話を切った。
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