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第56話

 光はすぐに家を出た。  最初に、二月まで清正たちが住んでいたマンションに向かい、大家でもある管理人に事情を話して様子を聞いた。  汀の顔は知っているが見ていないと言われ、もしここに来たら知らせて欲しいと頼んで、光の携帯番号を伝えた。  次に保育所に向かった。周辺で、まだ探していないところはどこか確認するためだ。時間が経てば経つほど遠くに行ってしまう可能性が広がる。同じ場所を回るような無駄は避けたかった。  強化ガラスのドアを押して光が駆け込むと、慌てた様子の職員が走り寄ってきた。 「汀くんのお母さま……」 「汀は……」  一瞬、お互いに怪訝な顔になった。職員が先に口を開いた。 「男性の方……?」  見ればわかるだろうと、光はややむっとした。だが、今はそれどころではない。 「汀は、確かに今朝、一度もここに来なかったんですか? この中にいる可能性は?」 「今日は誰も汀くんの姿を見ていません。保育所の中も、探せるところは探しました。本当にすみません、気付くのが遅くなって……」 「この近くで確認していただいた場所がどこか、教えてください」 「地図とリストがあります。すぐお持ちします」  すでに警察の協力も得ているらしく、細かくチェックが入った地図とリストを手渡された。 「コピーなのでそのまま持っていってください。それから、人が常駐しているところには、見かけたらすぐ連絡いただくようお願いしてあります」 「まだどこからも連絡はないんですね?」  職員は頷く。  ならば、汀はこの駅の周辺にはいないのかもしれない。一歳の時からこの街で暮らしていても、汀は駅とマンションと保育所以外の場所をほとんど知らないはずだった。  ビルしかない地区で、清正の職場には近くても、子どもが過ごせる場所はほとんどない。汀が外で遊ぶのは、上沢の家に行った時だけだ。  連絡があった時はすぐに教えて欲しいと言って、携帯の番号を伝えた。職員は汀の登録カードを持っていて、メモを取る代わりに、この番号で間違いないかと二番目に記された番号を示した。確認し、間違いないと頷いた。 「あの……、すみません。声をお聞きするまで、ずっと女性の方だと勘違いしていて……」  そんなこと、今はどうでもいい。光はただ会釈をし、保育所を後にした。  どこから探すのがいいか、クルマと電車ではどちらが効率的か、考える。  光の自宅から清正のマンションまでは電車でひと駅、クルマだと駐車場への出し入れも含めて五分程度なので、ここまではクルマを使った。マンションから保育所までは歩いてもすぐだったが、後で取りに戻る手間と時間を惜しんでそのまま乗ってきた。  もし、汀が電車に乗ったのだとしら、ここからは電車で行くほうが早いかもしれない。  クルマは地下駐車場に置いていこうと決めた。足があるうちにしておくことはあるか考えた時、突然、松井の顔が脳裏に浮かんだ。 「まさか、あいつが……」  清正に執着するあまり、松井が汀を連れ去ったということはあるだろうか。  実際には想像がつかなかったが、人のデザインを平気で盗み、勝手に改竄するような、光には理解しがたい神経を持つ人間だ。誘拐も犯罪だと思わないかもしれない。  もしも松井に連れ去られたなら、汀は今頃泣いているはずだ。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。  薔薇企画の本社ビルに向かい、エレベーターで三階に上がると、デザイン課の入り口に立って声を張り上げた。 「淳子さん、いますか!」 「あれ、此花くん」  通りかかった井出が、カウンター越しに対応する。 「淳子さんなら、二月末で退職したよ」  言われてみれば、そんな話を聞いた気がする。 「連絡先わかりますか。すぐ話したいことがあって」 「調べればわかると思う。あ、それか、まだこれが生きてるかも」  井出はカウンターの真ん中に置かれた固定電話を引き寄せると、短縮ダイヤルを押して受話器を光に差し出した。  コールが鳴るか鳴らないかのうちに、松井が出た。 『ま、松井ですが』  前のめりの、どこか緊張した声だった。ごくりと唾をのみ込む音がする。 「此花です。清正のところの汀を知りませんか?」 『……はあ?』  松井の声が急に不快な色を帯びたかと思うと、いきなり怒鳴った。 『ふざけないでよ! あんた、こんな時に、いったい何を言ってんのよ!』  プツッと通話が切れた。耳がキンとしていた。  横で聞いていた井出が目を丸くする。 「すごい剣幕だったねぇ」  眉間に皺を寄せた光に「まあ、無理もないけどね」と笑ってみせる。 「無理もない?」 「だって、淳子さん、今日は一日中、この番号からの電話を待ってるはずだもん」  眉間の皺を深くして見返すと、「やっぱり此花くんだなぁ」と井出が呑気に笑う。光が苛立ちを含んだ目で睨んでも、どこ吹く風でのんびりと続けた。 「だって、今日でしょ、発表。淳子さん、きっと受賞者への電話連絡を首を長くして待ってるよ」  コンペの最終審査が奥の会議室で行われているのだと、井出が説明した。 「決まれば夕方のネットニュースでも流れるから、結果は今日中にわかると思うよ。受賞者には先に連絡が行くみたいだけど」  受賞コメントを出す必要があるからねと、井出は言った。 「新ブランドのいい宣伝になるからねぇ。審査はガチみたいだけど、誰が取ったとしても、けっこう大きく扱われると思う。社長が根回ししてるはずだから。ってゆうか、此花くんも出してるんだよね?」 「今、それどこじゃないんで」 「さっきの話って何? 清なんとかのところの、なんとかって……」  友だちの子どもがいなくなって探している。松井は一度、その友だちの家に来たことがあるので心当たりがないか聞いたのだと短く説明した。 「え! それってこの前のイケメンくんの家でしょ?」  そういえば松井を迎えに来たのは、この井出だったと思い出した。 「あの可愛い子が行方不明なの?」 「汀っていいます」 「そうか。それは、心配だね。淳子さん、イケメンくんのストーカーになりかけてたし」  井出は心配そうに眉を寄せた。 「だけど、今日はそれどころじゃないんじゃないかな。淳子さんが誘拐するとしても、違う日にすると思うよ?」  不謹慎な言葉だが、井出の言うことには説得力があった。確かに今の松井の頭にコンペ以外のことはなさそうだ。  礼を言って踵を返す。背中に井出の声が聞こえた。 「僕のほうでできることはないと思うけど、早く見つかるように祈ってるよ」

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