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第57話
汀はどこに行ったのだろう。
松井が関わっていないなら、ほかに汀を狙う者の心当たりはなかった。しかし、通りすがりの犯行も否定できない。そのことを考えると、身体の芯が恐怖で凍り付くようだった。
汀自身が自分でどこかへ行こうして迷子になっただけならいい。そうであってくれと願う。それでも、きっと心細い思いをしているはずだ。そう思うと早く見つけてやりたかった。
保育所の周辺であれだけ人が動いても目撃情報がないなら、駅から電車に乗ったと考えたほうがいいのかもしれない。
保育所のあるターミナル駅は人の乗り降りが多く、汀一人の動向を駅員が記憶しているか心配だった。
それでも駅員に聞くしかなく、何人かに聞くと、迷子の情報は届いていないが、汀らしき子どもが改札を抜けていくのを見たという駅員がいた。
大人と一緒に改札を抜けたので、声を掛けることはしなかった。だが、親子に見えなかったのでなんとなく見ていたところ、前を歩く大人とは別の方向に歩き出した子どもがいた。それが汀ではないかと言うのだった。
スマホの写真を見せると、顔までははっきり記憶していないが、背格好や年頃は近い気がする、それと青いリュックに見覚えがあると言う。その子どもは下りホームへの階段を下りていったと聞き、光はそのまま電車に乗り込み上沢に向かった。
車窓を流れる景色を眺める心のゆとりはなかった。
駅を通過するたびに、毎朝小声で汀に教えた駅名が目に入る。文字を覚え始めた汀は、知っている字を見つけると真剣な顔でその文字を口にしていた。
汀が読めるのは「み」と、少し怪しいが「き」、それに「ひ」の三つだけだった。「みぎわ」の「み」と「きよまさ」の「き」。それと「ひかる」の「ひ」。
ちょうど「平瀬」という駅を通過し、汀が小さな声で「ひ」と呟いた姿が瞼に浮かんで泣きそうになった。
早く見つけてあげたい。
汀の行方が確認できなくなって、三時間が経とうとしている。一人でいるならどんなに心細いだろう。
事件に巻き込まれた可能性については、恐ろしくて考えられなかった。
上沢に着くと、駅員と交番の警察官に情報を聞き、周辺をざっと探してから毎朝通る道筋を走って探した。
まだどこからも有力な情報は得られていなかった。
途中の幼稚園で立ち止まり、園庭をくまなく観察してみたが、汀の姿はなかった。
ポケットでスマホが震え、慌てて表示を見る。清正からでも保育所やマンションの管理人からでもないのを確認すると、一度通話状態にしてすぐに切った。
悪いとは思ったが、余計な話している間に、大事な電話があるかもしれない。そう思うと、無駄な電話には出たくなかった。あれこれ説明するのも面倒だ。
今は汀を探すことしか光の頭にはなかった。
上沢の家に着くと、すぐに庭に回ってみた。そこにも汀はいなかった。汀は鍵を持っていない。それはわかっていたが、念のため家の中も探してみる。
まだこの家の鍵を返していなかったことに気付き、後で返さなければと頭の隅でぼんやり思った。
家の近くを探しながら、いつも汀を連れてゆく公園に向かった。
話したことはないけれど、毎回会釈を交わす母親グループがいる。いつもと違う時間だったが、もし彼女たちの誰かがいれば、汀を見なかったか聞いてみようと思った。
時間帯が違うと、公園にいる母親の顔ぶれはだいぶ違った。それでも、知っている顔を三人ほど見つけて、光は彼女たちに近付いた。
「あの、すみません」
初めて声をかけた光に、顔見知りの母親たちが驚いた目を向ける。
「午後に、ここでよく遊ばせてる、茶色い髪の子どもを見かけませんでしたか」
戸惑ったように視線を交わす母親たちを見て、不安になる。何か知っていることがあれば、どんなことでも教えてほしいと祈る。
母親の一人が、ようやく口を開いた。
「汀ちゃん、ですよね?」
「あ、はい。そうです。見てませんか?」
三人は再び顔を見合わせ、首を振る。
「あの、何かあったんですか?」
保育所からいなくなったのだと話すと、母親たちの顔に一斉に驚きと心配の表情が広がる。
保育所の周辺を探しても情報がなく、駅の改札を抜けた可能性があるので上沢を探しているところだと説明した。真剣な顔で耳を傾けていた彼女たちは「見かけたら連絡します」と言って、光の前でそれぞれスマホを取り出した。
「お願いします」
深く頭を下げて、連絡先を交換した。登録先に名前を入れようとした母親の一人が呟いた。
「汀ちゃんの……、ママかと思ってたんですけど、パパだったのね」
すみません、と曖昧に笑われて、光は首を振った。
「あ、違います。俺は……」
「あ、じゃあ、親戚の人か何かですか?」
説明するのは難しいので、とりあえず頷いた。「汀ちゃん、親戚の人」と登録されるのを見てから
「お願いします」
頭を下げて、公園を後にした。
ほかにどこがあるだろう。探せる場所を必死で考えた。
汀が自分一人で行けそうな場所は、もう思いつかなかった。どこか知らない場所で迷子になっているのだと思い、それ以上の危険に晒されている可能性を思うと、胸が押しつぶされそうになった。
保育所からもマンションの管理人からも、連絡は来ていなかった。
万策尽きた思いで、とぼとぼと駅に向かって歩いた。
保育所のターミナル駅では、改札を抜けて下りのホームに向かう子どもの姿が確認できた。四歳の子どもが一人で電車に乗ることは多くない。青いリュックも目印になる。おそらく汀で間違いないだろうと思った。
しかし、上沢の駅員に聞いてみたところ、こちらの駅ではそれらしい子どもを見たと言う話は聞けなかった。上沢駅はそれなりに栄えているが、保育所のあるターミナル駅と比べればはるかに規模の小さいごく普通の駅だ。乗客の数もずっと少ない。
それでも、その場にいた誰もが、一人で歩く子どもを見た記憶はないと言い、迷子を見かけたという届けも出ていないと言った。
外の交番で聞いても同様だった。
汀は、上沢で降りたのではないかもしれないと思った。
ここまで来る間のどこかで、何かがあったのだ。考えたくないが、事件に巻き込まれた可能性もなくはなかった。
またポケットでスマホが震える。今度は薔薇企画からだった。
今は仕事の話をしても何も頭に入りそうになかった。井出には悪いと思いながら、さっきと同じように一度出て切った。ふだんも電話に出られないことはあるし、必要ならショートメールを送ってくれるはずだ。井出には後で謝ればいい。
事情はを話してあるので、正直に本当のことを言っても怒らないだろう。
さらに二度、薔薇企画から電話がかかる。ショートメールかラインを送れと、心の中で毒づきながら、同じように一度出てすぐに切ることを繰り返した。諦めたのか、それきりスマホは静かになった。
しばらくして、今度は堂上からかかってくる。これも同じように切った。
汀の行きそうなところを考えなければならないのだ。事件の可能性もあるのだ。邪魔をするなと、焦りと苛立ちから八つ当たりする気持ちで対応していた。
社会人としてダメだということくらい、光にもわかる。けれど、一度にいろいろ考えることができないのだ。これで仕事が切られるなら、仕方がないと思う。
どこかないだろうか、ほかに汀が行くところは……。
ぐるぐると回る頭を抱えていると、またスマホが震える。
保育所か、マンションの管理人ならいいと思うが、表示されたのは見覚えのない十一桁の数字だった。一瞬無視しようかと迷うが、公園の母親たちの誰かかもしれないと思い直し、通話ボタンを押した。
『此花光さんの携帯ですか』
若い女性の声が聞こえてきた。やはり母親たちの誰かだったのだと気持がはやる。
「はい。あの……」
『私、川村です。川村朱里。わかりますか?』
「川……、え?」
電話をかけてきたのは、汀の母親、朱里だった。
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