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第58話
「あ……」
動転しすぎて、すっかり考えが抜け落ちていた。
今は朱里が一緒に暮らしているはずではないか。だったら、朱里は何をしていたのだろう。
清正は、なぜ朱里に頼まなかったのだろう。
そして、なぜこのタイミングで光のスマホに彼女から電話がかかってくるのだろう。
『もしもし? 聞こえますか?』
「あ、はい。聞こえてます」
『汀は、私のところにいます』
「え……」
一瞬、意味が掴めなかったが、『元気にしてますよ』という言葉を聞くと、ようやく頭が回り始めた。
「あの、どうして……」
『今、どちらにいらっしゃいますか?』
「え? あ、上沢駅の近くです」
『では、お手数ですが、そのまま上り電車に乗っていただいて、平瀬という駅で降りてください。そこで汀とお待ちしています』
「平瀬……。わ、わかりました」
「平瀬」は毎朝通過する駅の一つだ。汀がよく「ひ」という字を見つけて、小さな声で読んでいた。
状況はまったくのみ込めなかったが、とにかく汀は無事らしい。早く会って、自分の目で確かめたい。
ホームに駆け下りると、ちょうど上り電車が出るところで、十分ほどでその駅に着くことができた。郊外の大きな駅と都心との間にある各駅停車の駅は、上沢駅よりだいぶ小さく、ひっそりしている。乗り換える線もないので、下りる人の姿はまばらだった。
鉄骨が剥き出しの簡素な駅舎を出る。駅前に数件の小売店舗が建ち並び、そのすぐ先に昔ながらの雑多な街が広がっていた。
クルマ二台がやっとすれ違える幅の、継ぎ目が目立つアスファルトを渡った先に朱里と汀の姿があった。そばに和菓子の店があり、『どら屋』という木製の看板が出ている。汀のすぐ横で、「どら焼き」と言う字を染め抜いた旗が、パタパタと風にはためいていた。
「汀!」
「ひかゆちゃん!」
光の姿を見ると、クルマの往来も確かめずに、汀が泣きながら走ってくる。
「ひかゆちゃん!」
「汀、道路、危ないじゃないか」
「ひかゆちゃん……」
足にしがみついた汀を抱き上げる。今度は光の首にしがみついて、汀はわあわあと大きな声で泣き出した。つられて泣きそうになりながら、小さな背中を軽く叩く。
「心配したよ……」
「ひかゆちゃ……、ひかゆちゃん……」
泣きながら光の名前を呼び続ける汀が、愛しくて仕方ない。小さな背中をぎゅっと抱きしめて、ふわふわした髪に鼻を埋めた。
「無事でよかった」
朱里がそばまで来ていた。
「よかったわね。汀」
白い左手が汀の頭を撫で、透明な石がきらりと光る。
何からどう聞けばいいのかわからずにいると、朱里が先に口を開いた。
「すみません。今、ちょっと立て込んでいて、お話は私の家に着いててからでいいですか」
すぐそこですから、と言われて、曖昧に頷いた。
和菓子屋の奥に建つ古い木造アパートの階段を上がる。朱里がドアを開けると、妙にガランとした空間があった。
「今、引っ越しの最中なんです。大きな荷物は昨日運び出してもらって、今日はこれから、ここにあるものを処分してもらうことになってて」
「引っ越し……」
汀を抱いたまま、ああ、そうかと思って、うつむくように頷いた。
「清正のところに、行くんですね……」
「あら。違いますよ」
即座に朱里が否定する。違います、と繰り返して言うのを聞き、光は顔を上げた。
「でも、再婚するって……」
「ええ。おかげさまで再婚できることになりました。でも、相手は清正くんじゃありません」
「え……?」
やっぱり、と朱里が笑う。
「やっぱり勘違いなさってる。全然、違う人なんですよ?」
「でも……」
よりを戻したというのなら、相手は清正しかいないのではないかと不思議に思う。
「お義母さまからも、先日、『清正とよりを戻したんですって?』ってお電話をいただいて、どうしてそんな話になったのかビックリしましたけど、違うんです。お義母さまにも、その時にお話したんですけど」
朱里は可笑しそうに笑っている。
本当に、相手は清正ではないようだ。
「何もありませんけど、どうそ中へ」
汀を下ろして靴を脱ぐ。
半べそをかきながらも、汀は光のシャツを掴んで大人しくしていた。
ペットボトルのお茶と『どら屋』のどら焼きを脇に置きながら、朱里が口を開いた。
「ほんとに、グラスも何もなくて……」
グラスどころか、それを置くテーブルもない。段ボールの箱を間にして、焼けた畳の上に、汀を膝に乗せて座る。
朱里は、本当に相手は清正ではないのだと繰り返し、光の目を見つめて静かに言った。
「だって、清正くんが好きなのは、光さんですよね」
光は息を止めて見つめ返す。
「ずっと、そう思っていました」
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