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第59話
清正と出会ったのは大学一年の時だと、朱里は話し始めた。
同じ学部で、選択する講義のいくつかが重なり、何度か話すうちに魅かれた。けれど、清正のまわりには、たいていいつも女性がいて、気持ちを伝える機会はなかった。
四回生になった時、たまたま同じ教授から卒論の指導を受けることになった。
秋が終わる頃、朱里は想いを告げた。清正は穏やかに笑い、朱里との交際を受け入れた。
「嬉しかったわ。今でも、あの時のことを思い出すと、そう思えるんです」
付き合い始めると、清正の友人たちは口を揃えてこう言った。
『光に似ている』
『好みの顔なんだな』
光というのが誰なのか、気になって聞いた。付属高校からの共通の友人たちが『光は清正の親友だ』と教えた。
一番の親友なのだと。
顔だけ見れば人形のような美少女顔。なのに、中身は毛を逆立てた猫のような男で、怒ると手が付けられない。そのくせ、急にぽろぽろと涙を零し始めることもある。
とにかく変わった男なのだと、彼らは言った。
光は清正が助けなければ生きられない。だから、いずれ会う機会もあるだろう。そう言われたのに、その機会が来る前に朱里は清正と別れた。
最初に別れた時の理由は今もわからない。会いたいと言えば会ってくれるし、会えば優しくしてくれる。けれど、清正のほうから朱里を求めることは、一度もなかった。電話やメールをもらったこともない。
卒業し、それぞれ別の会社で社会人としてのスタート切ると、「会いたい」という言葉が言えなくなった。そうしていつの間にか会わなくなっても、清正が何かいってくることはなかった。
「私がいなくても、なんとも思わなかったみたい」
五月の連休に会ったのが最後で、夏になる頃には朱里から連絡することもなくなっていた。
自分の何がいけなかったのかと考えたこともある。けれど、清正とは縁がなかったのだと、だから、もう清正のことは諦めようと、自分に言い聞かせた。
汀がお腹にいると知ったのは、その頃だ。
初めは、産めないだろうと思った。まだ堕胎に十分間に合う時期で、誰に相談しなくても、どうするべきかはわかっていた。
「でも、産みたかった……」
光の膝の上で大人しく服の紐を弄っている汀を、明るい茶色の目で見つめる。
一人でどうやって産むのか、産んでも育てていけるのか、考えても考えても答えは出なかった。それでも、どうしても産みたくて、誰にも言わずに黙っていた。
ある日、身体の変化に気付いた両親に無理やり病院に連れていかれそうになった。朱里は家を出て、疎遠になっていた父方の祖母を頼った。就職したばかりの商社を辞め、産み月の近くまで祖母の家の近くのコンビニで働いたという。
一人で育てるつもりだった。幸い祖母が味方になってくれたし、住むところがあれば、やっていける。そう思っていた。
清正に会ったのは、清正が何も知らない間に、知らないところで彼の子どもを産むことに罪悪感があったからだ。何かを求めるつもりはなく、ただ、清正には知る権利があり、朱里には知らせる義務があると考えた。
知らせて、詫びる必要があると思った。勝手なことをしたと。
「でも、話が終わると、清正くんはひと言『籍を入れよう』って言ったんです」
信じられなかった。そんなことをしてもらうつもりで、話したのではないと朱里は言った。
けれど、清正は
『三人が食べていくくらいなんとかする』
そう言って、笑ったそうだ。
「その日のうちに、婚姻届けを出しました」
年末、世間は仕事納めで、慌ただしさの中にも一年が無事に終わることを喜んでいた。役所の入り口には、新しい年を迎えるための松が飾られていた。
そうして、朱里は清正の妻になった。
「おかげで、私を案じていた祖母は泣いて喜んでくれました。両親も私を許してくれました。上沢のお義母さまには本当によくしていただいて……」
上沢から数駅離れた土地で二人は暮らし始めた。年が明けて、ひと月余り経って汀が産まれた。
「幸せでした。清正くんは、本当にいい夫でいい父親だったと思います」
優しくて子煩悩で、立派な会社に勤めて、家事も積極的にこなす。その上、
「イケメンだし」
朱里はわずかに口元をほころばせた。ずいぶん羨ましがられたのだと、当時を懐かしむように目を細める。
その笑顔が、寂しそうなものに変わる。
「どうして……」
汀に指をおもちゃにされながら、光は、いつか会ったら、会って聞ける日が来たら、聞きたいと思い続けてきた問いを口にした。
「どうして、別れたんですか」
清正と。
そんなに理想的な夫だった男と。
「別れたいって言ったのは、朱里さんのほうだったって、誰かが言ってました」
「ええ」
寂しそうな笑みを浮かべたまま、朱里が頷く。
「だって、わかってしまいましたから」
優しく穏やかな日々の中で、清正の中に感じる空虚な部分。それが何なのか、朱里はずっと気になっていたという。
「どこか……、本当ではない人生を生きているような、投げやりなものを感じていたんです。うまく言えないんですけど……」
光は、ふと、聡子の言葉を思い出した。
『あの子は、ちゃんと自分のやりたいことをやれてるのかしら……』
どこがと上手く言えないけれど、自分の本当の人生を生きていないような気がする、それが心配だと聡子は言っていた。どこかで何かを諦めている気がするとも。
「それが、何なのかがわかってしまったんです」
朱里は目を伏せた。
光にはすぐに会えると言われていたのに、結局一度も会えないままだった。汀が産まれ、ほかの友人たちはお祝いに訪ねてきたのに、光は来なかった。
だから、朱里は光の顔を知らないままだった。
「でも、見たんです……雑誌で」
「ああ……」
もぞもぞと動き始めた汀を抱き直しながら、光はため息を吐いた。
入社して一年目に、堂上に言われて受けた最初の取材記事のことだろう。
堂上は、時々ファッション誌などの取材を光に受けさせる。「せっかくのビジュアルを武器にしないのはもったいない」などと言って。デザインは顔でするわけではないと光が喚き立てると、一度は「わかった、わかった」と引き下がるくせに、光が忘れた頃になると、また似たような仕事を入れるのだ。
「印刷された写真でしかありませんでしたが、皆さんの言うことはわかりました。実際にお会いしてみれば、そんなことはありませんでしたが、確かに私と光さんは似てたんです」
全体的に細い骨格、色素の薄い髪と目と肌。向かい合ってみれば、それほど似ているとも思わないが、大勢の人間の中に入れば、その中での印象で「似ている」と言われるのはわかる。
「その時の気持ちは、今でもうまく説明できないんですけど、何かが腑に落ちた……そんな感じでした。ずっと感じていたもやもやしたものが、形を持ち始めたような……」
雑誌は仕事の資料に挟んであった。掃除の時に床に落としてしまい、片付けようとして見つけた。朱里は「秘密」を見つけてしまったと感じたそうだ。
一番の親友の取材記事が載った雑誌。それを持っていても、何も不思議ではない。
けれど、なんでもないのなら、清正はそれを朱里に見せただろう。同時に、一度も会いに来ない「一番の親友」が、清正にとってどんな人間なのか、理解したように思った。
「清正くんが好きなのは、あなたなんだって……」
そして、清正が何を諦めて生きているのかも、理解した。
穏やかで、幸福な日常。そこに清正の嘘が潜んでいても、見ないふりをすればいい。汀のためにも、今のままでいたほうが、いい。
「思いすごしだ。気のせいだって、自分に言い聞かせました。でも、ダメだったんです」
清正が優しければ優しいほど、誠実であればあるほど、その奥にある諦念や虚無を感じるようになった。
「清正くんは、自分の本当の人生を生きてない。うわべだけ、形だけの『嘘』の人生を生きてる。……私のせいで」
「それは……」
違う、と言いたくて顔を上げた。それも清正が選んだ生き方だ。
けれど、朱里は小さく首を振った。かすかに微笑を浮かべて。
「ごめんなさい。そうじゃなかった……。私のせいでって思ったから、別れたんじゃないわ……。私は、嘘の人生を生きてる人と、自分も嘘を吐きながら生きていくのが怖くなったんだと思います」
幸せなふりをして。
まわりも自分も騙して。一生……。
「汀にも、嘘を吐いて……」
じっとしていることに飽きてきた汀が、光の膝を降りて朱里に抱き付く。小さな背中を、朱里の手がぎゅっと抱きしめた。
「私の考えを全部話して、別れたいって言ったら、清正くんはただ『汀を置いていってくれ』って言ったの。私は……」
朱里の声が震えた。
「ママ、おしぇなか、いちゃい」
「あ。ごめんね。汀」
「しゅこし、ぎゅってちて」
「うん」
「だいしゅき?」
「大好きよ。……ママ、汀が大好き」
光は唇を噛んだ。わさびが効きすぎた時のように鼻がツンとなって、横を向く。
清正は、ひどい男だ。
何度も思ったことを胸の裡で繰り返す。
「でも、私は、清正くんに感謝しています。本当に……」
朱里が続ける。
「戸籍がどうなっているかで人の価値が変わるわけではないけど、汀の人生のスタートに、初めから不利な条件を背負わせずに済みました」
認知さえ望まなかった。父親のわからない子どもとして産まれてくる我が子を思うと、胸が痛まなかったわけではない。
その汀に、両親の名前が揃った戸籍を与えてくれた。
「それだけでも、あの一年は意味があったと思っています」
その上、と汀の顔を覗き込んで、微笑む。
「こんなにいい子に育ててくれて……」
目には涙の名残が光っていた。
「ママ、どややきは?」
「あ。ごめんごめん。いただきましょうね」
きゃっと声を上げて、汀が笑う。
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