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第60話

 段ボール箱をテーブルにして、朱里がペットボトルの日本茶とどら焼きを並べる。それぞれの前に「どうぞ」と置くと、汀が「あいやとぉ」と顔を輝かせた。  朱里の手元に光る指輪を見ながら、光は聞いた。 「それで、汀はどうしてここに……」 「それが……、汀は、あなたに会いに行こうとしたみたいなの」 「俺に……?」  懐紙を折る手を止めて、光は顔を上げた。隣の汀はどら焼きの包みと格闘している。 「清正くんが、あなたに会わせてくれないって言って……」 「ひかゆちゃん、あけてくらしゃい」  汀がどら焼きの包みを寄越す。開けて返すと「ありやとぉ」と言って、光が折った懐紙の上にそれを置いた。 「どういうことですか?」 「私にもよくわからないんですけど、たぶん、電車に乗れば光さんのいるところに行けると思ったんじゃないかしら?」  歩いて行ける場所に、光はいない。だから、電車に乗って会いに行こうと考えたのではないかと、朱里は言う。 「それで、どうしてここに……?」  朱里を頼ろうとしたのだろうか。光の問いに、どうもそういうわけではではないらしいと朱里は答える。 「『どら屋』のご主人が汀の顔を覚えていて、一人でいるのを見かけて私に知らせてくれたんです。でも、私が迎えに行くと、汀はきょとんとしていて……」 『ママ、どうちたの?』  そう聞いたらしい。だとすると、たまたま来たことがある駅で降りただけなのだろうか。 「ひかゆちゃん」  汀がまた包みを差し出す。 「ん? 中身は?」 「ひ」  汀は短く言って、にこりと笑う。どら焼きの包み紙を見せて、もう一度「ひ」と言った。紙の上のほうに書かれた「栗まるごとひとつぶ入り」という文字を指して、にこにこしていたが、急に心配そうな顔になって包みを両手に持った。 「ひ……」 「え? あ、ほんとだ。『ひ』だ。よく読めたな」  汀の両手を包み紙ごと持って「えらいぞ」と笑うと、汀もぱっと笑顔に戻った。  光は、あっと思った。 「ひ……。『平瀬』の『ひ』か」  そして「ひかる」の「ひ」。  毎朝、この駅を通り過ぎる度に、汀が読んでいた文字。その文字、「ひ」を光と結び付けて降りたのかもしれない。  ようやく少し腑に落ちた。  しかし、たまたま朱里の元に保護されたからよかったものの、降りたのがほかの駅だったらと思うと恐ろしい。光や保育所の人間だけでは、とても探せないだろうし、危険な目に遭う可能性も高くなる。 「心配させて……」  息を吐き、光もどら焼きに手を伸ばす。まったりとしかけた時に、朱里が驚くことを言った。 「あの、清正くんは、汀がここにいること、まだ知らないんですけど……」 「ええっ」  光は慌てて清正に電話をかけた。 『汀、いたのか』  コールが鳴るか鳴らないかのうちに声が聞こえる。 「いた」  ほうっと安堵の息を吐くのが端末を通して聞こえた。今、どのへんにいるのかと聞くと『もうすぐ上沢だ』と答えが返る。折り返して、平瀬の朱里の家に来るように伝えた。 「事情は着いたら話すから。とにかく汀の顔を見るのが先だろ」  通話を切ってから朱里に聞いた。 「なんで、真っ先に知らせてやらないんですか」 「だって、汀が、どうしてもダメだって言うんですもの」  先に光に会うのだと、拙い言葉で頑なに言うので、従わないわけにいかなかった。 「汀が泣くことなんて滅多にないから」  あんな時間になったのは、そもそも『どら屋』の主人が汀に気付いたのが開店準備をしていた十時前で、朱里に知らせたのが十時頃だったからだ。それから汀の話を聞き、光に電話をかけたのだが、一度目はなぜか出てすぐに切られてしまった。  話を聞きながら、光は「あ……」と声を漏らした。幼稚園の前あたりで切った十一桁の番号は、朱里からだったのだ。  最初の電話を切られた後、朱里は荷物の確認や退去手続きのことで、大家と不動産屋の話を聞かなければならなかった。それが済み、二度目にかけた時に、やっと光と話ができたのだという。 「そうだったんだ……」  最初の電話を速攻で切ってしまったことを詫びた。  知らない番号だから仕方ないという朱里の言葉を聞き、ふと気になって訪ねた。 「俺の番号って、どうして……」  汀の連絡帳に書いてあったと言って、朱里は笑った。  十五分ほどで清正は到着した。 「汀……っ」 「パパ……」  清正の姿を見ると、汀は少し心配そうな顔になった。けれど、駆け寄った清正にぎゅっと抱きしめられると「いちゃい」と言って足をバタバタさせ、すぐにきゃっきゃと嬉しそうに笑い声を立てた。 「パパ、ママ、ひかゆちゃん」  一人一人、指を差して「みんな、いっしょ」と目をキラキラさせる。汀の罪のない笑顔に、やつれた表情の清正が深いため息を吐いた。  荷物のない部屋の真ん中で、段ボール箱の上のどら焼きを食べた。ようやくあたりを見回す余裕のできた清正が「引っ越し、今日だったのか」と呟く。  大きな荷物は昨日送り出した。今日は細かい手続きと片づけをしていたのだと朱里が言う。 「飛行機、いつ?」 「明日のお昼」 「そうか。すぐだな」  二人の自然な会話を、不思議な気分で聞いていた。  突然、あんこまみれの手が口に伸びてきて、光は身を引いた。 「ひかゆちゃん、あーんちて」 「え?」  恐る恐る口を開くと、栗をまるごと押し込まれる。 「汀……?」 「あげゆ」 「いいのか? 栗……」  栗は汀の大好物なのに。 「あげゆの。じぇんぶ、あげゆかやね?」  ベタベタの手で汀が光に抱き付く。汀が、ぐしっと泣いた。 「くい。ひかゆちゃん」 「うん」 「あげゆ。ひかゆちゃん、ろこもいかないれ」  ぎゅっとしがみついてくる小さな身体を抱きしめると、ふいに涙が出てきた。 「……どこも、行かないよ」  ポンと背中を叩くと、身体を離して汀が笑う。顔が少し汚れていた。  ほっぺたの汚れをハンカチで拭いてやりながら、光も汀の口に指を差し出す。 「あーんしてみな」  ぱかっと開けた口の中に光の栗を入れてやった。 「くい……」 「俺の栗を汀にやるから、汀も、もうどこにも行くなよ?」  汀の頬が輝く。栗をほおばったまま、いっそう舌足らずな口調で「ろこも、いからい」と言って笑う。それから、うっとりと味わう表情でもぐもぐと口を動かし始めた。  朱里と何か話していた清正が汀に声をかける。 「汀、夕方から、ママと水族館、行くか?」 「しゅいじょくかん、いちたい」  夜のだぞ、と笑いかける。いつもと違う魚がいるのだと清正が身振り手振りで言うと、汀はぴょんぴょん跳ねて「いちたい」とはしゃいだ。 「汀、その後、ママと一緒にお泊りもする?」  朱里の声に、汀は跳ねるのをやめた。清正を見る。 「パパは?」 「パパは行かない。ママと汀だけだ」  汀は急にもじもじと清正にしがみついた。清正は汀を抱き上げ、目を見ながら静かに話す。 「ママは、明日オーストラリアっていう国に行く。遠いところだから、しばらく会えなくなる」  汀は黙って清正のネクタイを弄っている。 「だから、最後に汀と、特別なデートがしたいんだ」 「パパもいっちょ」 「パパはいかない。一人じゃお泊りできないか?」 「みぎわ、……」  朱里が横から「いいのよ」と言った。 「ごめんね。ちょっと言ってみただけだから」  汀に向かって、もう一度「ごめんね。いいのよ」と繰り返す。それから、そろそろ不用品の引き取り業者が来るのだと言って立ち上がった。  清正と光も腰を上げた。  その時、汀が小さな声で言った。 「みぎわ……、ママとおとまい、しゅゆ」 「え……」  朱里が慌てて、汀と目の高さを合わせる。 「ほんとに? いいの? 汀だけで……」  汀は頷いた。 「みぎわ、よんしゃい」  指を四つ立てて誇らしげに朱里の前に突き出す。 「そうね。そうね。大きくなったわね」  朱里は何度も頷いて、汀をしっかり抱きしめた。  冒険の疲れが出たのか、汀は少し眠そうだ。業者に立ち合うだけなので、朱里はずっと部屋にいるという。少し眠らせて、夕方水族館に行って、その後近くのホテルに泊まると、予定を告げる。  清正は、明日の昼、搭乗手続きをする前に汀を空港まで迎えに行くと約束した。  半分うとうとし始めた汀と朱里を残し、清正と光はアパートを後にした。  外に出て二人きりになると、なんとなく気詰まりな空気になった。喧嘩別れのように光が上沢の家を出てから数週間が経っている。何を話していいかわからなかった。 「朱里が……」  清正が口を開いた。少し無理をしている気配がある。 「朱里……、光が作った名札、すごく喜んでた」 「あ……、うん」 「ありがとな」  ちょっと泣いてたぞと言われて、少し照れる。けれど、すぐにまた話題がなくなり、気まずく黙り込んだまま駅前の道を渡った。  渡れば、すぐに駅だ。気まずい空気が消えないまま、ホームへの階段を昇る。  改札は二階にある。それぞれICカードで抜けると、清正は下り電車のホームに続く右手の階段を目指し、光は上り車線に続く左手の階段へと足を向けた。  左右に分かれて進み始め、お互いが別々の方向に向かっていることに気付いて、立ち止まる。  横を向くと、清正も光を見ていた。 「あ。えっと……、じゃあな」 「ああ」  短い挨拶を交わしたものの、どちらも動かず、そこに立っていた。 「……朱里さん、オーストラリアに行っちゃうんだな」 「ああ。相手が向こうの人らしい」 「相手の人って、外国人なの?」 「らしいな」 「……そうなんだ」  大変そうだね、と意味のない言葉を口にしてみる。会話が続かず、少し悲しい気持ちになる。 「汀、ほんとは、朱里さんに会いに行ったのかな」 「違うだろ。朱里から聞かなかったのか?」 「あ。聞いた……。でも、ほら、今日で最後ってわかってたとか」 「ないな。俺もさっき初めて知った」 「そ、そうか」  気持ちが焦る。 「汀、お泊り大丈夫かな」 「大丈夫だろ」 「でも、お泊りしてもすぐ寝ちゃいそうだな。遊んだ日は、汀、寝るの早いから。行くまでもお昼寝しそうだし……。せっかくなのに、朱里さん、寂しいだろうな」 「いいんだ。それが朱里の望みだから」 「え……?」 「朱里は、汀の寝顔をほとんど見たことがないんだよ。だから、最後にゆっくりと眺めて過ごしたいんだ」 「そう、か……」  月に一度。会うたびに大きくなる汀を、朱里はどんな気持ちで見てきたのだろう。寝顔も、歯磨きも、風呂の前にトイレに行って半ズボンを引きづっている姿も、知ることなく。 「汀が……」 「うん?」 「お泊り、行くって言って、よかったな」 「ああ」  あの人の、汀と清正との、最後の願いが叶えられてよかった。  それきりまた会話が途切れた。黙っていると、清正がぽつりと言った。 「汀……、光に、会いに行ったんだな」  視線を上げると、清正が口を硬く結んでいた。 「俺のせいか……」  自分が光に会わせなかったから、と清正がうつむく。 「汀……。毎日、この駅を通る時、おまえの名前を小さい声で呟いてた」  ひらがなの「ひ」の字を読んで、そこに光がいるとでもいうように、文字に向かって『ひかゆちゃん』と呼んでいた。切なくなって清正を責める。 「呼べばいいだろ。なんで会いに来いって言わないだよ」 「おまえだって、自分から来なかっただろう」 「だって、俺は……」  清正と朱里が復縁したと思っていたのだ。清正の妻のいる家に、光は行きたくなかった。  清正は苦しげに言葉を吐き出した。 「光に会えば、抱きたくなる」 「え? き、清正……」  急に何を言い出すのかと、少し焦る。 「おまえが泣いて嫌がっても、無理やりにでも、したい……。それで出ていかれて、頭が真っ白になって、汀の気持ちまで考えてやる余裕がなかったんだ」  言葉の意味がうまく頭に入ってこない。呆然と見上げていると、清正が気まずそうに目を逸らした。 「悪い。なんでもない……。忘れてくれ」  その横顔が、中二の時の屋上に続く階段での清正に重なる。 『ヘンな意味じゃない』  そう言って、視線を逸らした。だけど、それは嘘だったと言った。ずっと、本当の顔とは違う顔で、清正は光のそばにいたのだ。  光が、五月の庭の薔薇の下に、一番綺麗で壊したくないものを隠していたように。 「清正……」  名前も付けずに目を逸らしてきたように。  聡子や朱里が、嘘の生き方と呼ぶ人生の向こう側に、清正も壊したくない大切なものを隠し続けていたのだ。 「清正、そうじゃないんだ……」  どういえばわかってもらえるだろう。言葉で伝えられることは、あまりに少なくて、光はいつももどかしくなる。  視線を落としたままの清正が、下りホームへの階段を下り始める。 「清正、俺……」  どうすれば、届くのか。  光と清正の間を、ホームに向かう人の波が通り過ぎる。下校の時間なのか、スマホを手にした女子高生の集団が、小さく「おお……」とどよめきながら、目の前に立ち止まった。  互いに端末を見せ合い「これ、ヤバくね?」と笑みを交わす。 「ヤバイ、カッコイイ」 「欲しい。けど、高そうだなぁ」  口々にそんなことを言いながら、キラキラした彼女たちは通り過ぎていった。  下りホームへの階段に女子高生たちの頭が見えなくなった時、入れ替わるように背の高い男が勢いよく駆け上がってきた。 「光」  いきなり清正に手を掴まれ、引き寄せられた。 「一緒に帰ろう」  何が起きたのかわからないまま、光は清正に手を引かれて下りホームに下りていった。

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