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第175話

その間に車は倉庫の敷地内に到着し、入り口付近に見馴れた男が立っているのが視界の隅に映ったが、唇を放す気にはなれなかった。 そいつの存在を無視して尚も甘いチィの唇を堪能していると、背後から唯ならぬ殺気を感じて仕方なく振り返れば胸ぐらを掴まれ、瞬く間に外へと連れ出される。 俺は不機嫌な感情をそのままに、唾液で濡れた口元を軽く拭って漸くそいつと向き直った。 「………なんの用だ健吾、俺はお前を呼んだ覚えはないが?」 「お前になくてもこっちはあるんだよっ、どうせ今のも合意の上でやったんじゃないだろ!例えお前でもチィを無下に扱う事は俺が許さないぞっ」 目の前に立つ健吾は凄い剣幕で怒鳴り付けてくるが、俺もこいつに邪魔されて気が立っている。 今なら軽く人ひとりを殺せそうだと危ない事を考えながら奴を睨むと、目の前の男は痛々しいものでも見るような眼差しで深い溜息を吐いた。 「……なんだよその目、俺がいない間に何があった」 気遣う様子を見せる健吾に、それでも荒ぶる気を鎮めることができない。 だが幾ら睨み付けても退かないばかりか、説明を求めてくるこいつに最後には折れ、仕方なく俺は今までの経緯を手短に話してやった。 「あいつは応急処置以外のキスを望んでいないと言うから……」 「それで腹が立った、というのか?………ハァッ、お前って奴は……」 すべてを話し終え、幾分落ち着いた俺は健吾の鋭い問いに不承不承だが頷く。すると奴は呆れたようにまた深い溜息を吐いて項垂れた。しかし次の瞬間、拳を大きく振りかぶり俺の左頬に鈍い痛みが走る。 それは避けようと思えば避けられた衝撃だが、ここは甘んじて受け止めた。己に非があると自覚しているからだ。 近くで見ていた山河が慌てて俺たちの間に割って入ろうとするが、それを手で制して無言のまま首を横に振った。加減したのか殴られても大して痛くもなく、健吾の怒りも十分に理解できる。 それに受けた衝撃でやっと冷静さを取り戻す事ができた。これ以上は山河が心配するような事態は起きないだろう。先ほどまでの俺はドス黒い感情に呑み込まれていた。 チィが二度目の発作を起こした時に傍にいてやれなかったのにも腹が立つし、あいつが俺を心から望んでくれなかった事に対しても憤りを感じてしまったのだ。 だからといってチィ自身に当たるのは筋違いだったと、冷静になった今ならわかる……。 正直にそれらを打ち明けると健吾は苦笑いを浮かべ、俺の肩を拳で強めに小突いた。 「お前も所詮は人の子って事か……。まっ、拳喰らって正気を取り戻す辺りお前らしいけどな」 「フン、それ虎治さんにもさっき似たようなことを言われたな……どういう意味だよ」 健吾は先ほどとはうって変わって穏やかにそう言うと、車の方に視線を向ける。それから優子さんに連絡を貰い、チィの診察に訪れたのだと告げた。 発作の件も既に彼女から聞いていて、急患も落ち着いたのでとりあえず様子を見にこちらへ顔を出したのだと言う。 「先の急患で疲れているのにみっともないところを見せたな、すまない」 「気にするな、俺はただチィが毎日幸せに笑ってくれてたらそれでいい。お前がどんなにカッコ悪い失態を晒そうと、俺は一向に構わんさっ」 人がしおらしく頭を下げれば嫌味な顔でニッと笑い、健吾は力任せに俺の頭をグシャグシャと撫で回した。 相変わらずの馬鹿力に顔を顰めつつ、迷惑を掛けた手前その腕を振り払うワケにもいかず、なんとか堪える。 こいつもやはりチィが何より大切なのだと、その屈託なく笑う姿を見て痛感したのだった。

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